名古屋山岳会80周年記念として会史が発行され幾年かが経ちました。
海外登山の部分の記事だけですが、少しずつアップしていきます。
第Ⅶ章 海外登山の幕開け
1950年 ヒマラヤ8000m峰の初登頂
1950年(昭和25年)、フランスのM・エルゾーク隊のアンナプルナ主峰(8091m)の初登頂から、ヒマラヤの8000m峰が次々と登られ、1953年、イギリスのJ・ハント隊のE・ヒラリー、テンジンがエベレストの初登頂を果たす。
1956年5月、日本は3次にわたるマナスル(8156m)挑戦で、日本山岳会隊(隊長、槇有恒)が今西寿雄、ガルツェンにより初登頂する。日本隊による初の8000m峰の成功である。この成功の影響も有ってか、国内は登山ブームになって行く。中学生だった私も、第2登の日下田氏の講演を学校の講堂で聞いた。
1960年 ジュガールヒマール主峰へ初の全日本山岳連盟隊
当時は外貨持出し規制が有り、1960年 全岳連と日本山岳会(JAC)は「日本山岳協会(日山協)」を新しく創設し統合することになったが、全岳連が日山協と改称、JACは各県単位でその県の岳連(山協)に加盟することになるのは1966年である。
以前から中央に太いパイプを持つJAC系が巾を利かし、JACか大学山岳部などの学術調査などをからめた海外遠征がほとんどであった。
ようやく1959年、全岳連は文部省当局から「スポーツ登山としての海外派遣」の話があり、外貨も許可されることになり、喜んで直ぐ各県岳連に通達された。
時節到来と8月、東海地区山岳連盟(愛知、岐阜、三重、以下、東海岳連)はジュガールヒマールの主峰、ビックホワイトピーク遠征計画を決定した。
しかし9月に伊勢湾台風が襲い、一時頓挫する。が、こんな時こそ頑張ろうと10月には全岳連理事会で被害県として各県から多額のカンパを受けながらも計画推進をPR,12月、正式計画書提出、急ぎ全岳連は他の東京の計画と合わせて深田久弥氏などの有識者を加えて審議、東海岳連隊計画とすることに決定、初の全岳連隊として1960年プレモンスーンのヒマラヤに挑むことになる。
東海岳連は、2月中旬の隊荷梱包完了までに、隊員を決め、ネパールの登山許可申請をしながら、装備、食糧などの収集、梱包などには、多くの岳連関係者が懸命に協力、何とか3月1日、隊荷の神戸出港に間に合わせる。
この計画に参加した加藤幸彦は当時、実はビックホワイトではなく、三重・岩稜会の石岡繁雄氏を中心とした東海岳連案としてジャヌー(7710m)計画を進めていた。
愛知岳連案のビックホワイト計画案と対立し、紛糾したが、全岳連の要請をうけて1959年8月、急遽3県協議の結果、ビックホワイトに決定するが、その後も目標の山について、対立気味のまま、翌1月4日隊員内定という流れの中で、隊員として選抜される。しかし準備期間が実質2ヶ月も無く、あまりにも短かく、隊員間の意思統一もなされないままなどもあり、ビックホワイトには登れず、近くのマディアピーク(6900m)の初登頂に終わる。
これを組織作り、費用カンパ活動などの面で愛知岳連副理事長だった大和幹夫も全面的にバックアップした。そして涙ながらに敗退した加藤幸は、その後の名古屋山岳会海外登山活動に火を点けることになる。
この年、マックス・アイゼリンの国際隊がダウラギリⅠを初登頂する。
1962年 ビックホワイトピーク初登頂
この計画は翌1961年、大阪と東京都岳連合同隊に引継がれるが失敗、1962年、東京都岳連隊の計画にジュガール会の推薦で経験者として、また勤務が東京駐在うということもあって加藤幸が参加、この時も岳連理事長になっていた大和は加藤幸をカンパなどの資金面でバックアップ活動をする。
そして隊はビックホワイトピーク(7083m)初登頂、隊長を除く全隊員登頂に成功した。3年目にようやく全岳連隊としての初の成功であった。
1964年 ギャチュンカン初登頂と外貨持出し自由化の流れ
長野県山岳連盟(後に長山協)が計画した全岳連ギャチュンカン(7922m)遠征隊(隊長、古原和美)に加藤幸が、登山実績と隊長がジュガール会という縁とで推薦されて補強隊員とて参加、初登頂者となる。
その縁でその後、加藤幸の橋渡しにより当会は、長山協、とくに山岳会/グループ・ド・モレーヌ(GDM)と友好、交流が深まり、1976年の日イ合同マナスル遠征にも繋がって行くことになる。
この年、観光外貨持出しが一人500ドル(¥360/$ 18万円)まで自由になり、全国的に海外登山が盛んになりはじめ、愛知岳連も大和理事長が前年から提案していた海外登山研究会が2月に正式発足する。海外登山の幕開けである。
1965年 海外登山委員会発足
1965年の愛知岳連のダウラギリⅡ(7751m)計画に天野達也が参加、登頂失敗に終わるが、この計画も全岳連隊だった。
当会も1月、海外登山委員会という研究会が有志で発足。毎月、帰名した加藤幸の自宅に1日泊まり込みで情報収集、学習をしながら、毎月一人1万円のオープン投資信託を買い、個人資金を蓄え、海外登山の夢を身近にする活動が始まる。
収集し始めた情報を長山協などの仲間と交換、補完しあいながら、翌1966年からニュージーランド、アンデス、台湾、ヨーロッパアルプス、アラスカと毎年のように次々と出かけることになった。観光外貨持出し枠も1969年に700ドル、翌年1000ドル、1971年には3000ドルと拡大し、10万円までの円持出しも認められ、意欲と資金調達が出来れば、誰でも海外登山に挑戦し易い時代になっていった。
(木村博)
月報№13表紙
画:小川義夫