1965年  愛知岳連ダウラギリⅡ峰 7751m
天野 達也

 1964年、愛知岳連の理事長で、この遠征計画の実行委員長の大和さん、それにドンちゃんらの強引な売り込みがあり、愛知岳連主管の「全岳連ダウラヒマール遠征隊1965 ダウラギリⅡ」のメンバーとなる。勤務先、両親、資金などの対応を苦労してクリアーしたが、9月、ネパール政府が「1965年以降のヒマラヤ登山不許可」の発表がなされた。

 各国各隊の陳情合戦は峻烈をきわめた。いろいろな人脈を頼り、隊長はじめ必死の陳情の結果、11月20日、登山許可が出たことを新聞で知る。このときの気持ちは何に例えようもなくうれしいものであった。
 遠征の結果は、BCまで想定外のキャラバン66日、2度のアクシデントで、残念ながら失敗に終わった。

期  間:1月25日~7月5日
メンバー:天野達也×7(隊長 杉田博、副 沖允人、加藤彰、平松和男、広瀬豊、大沢正義、松岡伸郎)

1月25日 先発隊(杉田、沖、平松)神戸港を隊荷とともに出港
2月19日 後発5名、羽田発。香港(外貨調達)経由でバンコックへ
2月23日 隊荷、隊員カトマンズ集結、
  24日 ポカラへ、DC-3で。アンナプルナホテルに、隊荷5トンも
  28日 ポカラからキャラバン開始。ポーター20人、ミュール(小馬)60頭

3月 8日 ダウラギリ山群とアンナプルナ山群の間を南北に流れるカリガンダキを北上、ダンガルジュン着。
    しかし50年ぶりの大雪とかで、村祭りもあり、20日間停滞することに。9日に先発(偵察)隊5名を出す

29日 キャラバン再開。先発隊との交信で、「27日ティジュラの下での雪崩で5名全員が流され、
    シェルパ2名が行方不明」を知る

4月1日 サグダ・コーで先発隊と合流、行方不明のシェルパ発見に注力。
     計画の先が見通せず、食糧制限が始まり、現地食調達を進める

高き峠を越え行きし        むせびなく声きこゆれば
     わが友二人帰りこず        また 流れきし涙かな
     青き空とはうらはらに
     みな悲しみにうなだれぬ          April 3rd 1965 天野

9日一人、10日一人、遺体発見。荼毘する燃料(草木)なく埋葬する。
11日 葬儀を行う。そのあと沖副隊長が英訳した“惜別の詩”を読み、続いて私が前述の詩を読み始めたが、
  涙に震え、声にならなくなっていた。
   ポーターが集まらない。畑の種蒔きが終わるまで待たされ、部落の食糧がなくなり、買えなくなる。
  遠征隊はバッタの大群を思わせる。

24日 ようやくキャラバン再開
27日 一昨日から風邪をひき、頭痛激しい。ニエンダでDⅡの頂が見えた
5月 4日 ムクトガオンに到着。66日間の長い長いキャラバン。
    オーストリア隊BC跡地にBC設営。計画の遅れで、速攻体制で臨むことに

10日 前日C3設営。C4ルート工作中に実力のあるシェルパが滑落、胸腰椎移行部と右足頸の骨折。
   彼らはアイゼンを付けたがらないためか

12日 負傷者をC3収容、負傷者を運び降ろすことを当面の目標とし、同時に撤退することを決定

16日 一日安静にし、14日から下降、BCに収容。
18日 負傷シェルパを一刻も早くカトマンズで手当てすべく、
   広瀬ドクターらが負傷シェルパとカリガンダキの最短ルートで下山

22日 帰りのキャラバン開始。帰路は西に向かって、ダウラギリ山群の南側を偵察しながらポカラに向かう隊と、東に向かってアンナプルナ山群の北側を周りポカラに集結する隊に分れる。私は隊長らと東に向かう

6月15日 ポカラ着。108日目のポカラだ。17日 DC-3でカトマンズへ
25日~27日 ニューデリーやカルカッタ経由でバラバラに香港へ、
7月 4日 香港から羽田へ、
5日 名古屋着

[ 月報3号(1967.7)~20号(1969.10)より抜粋 ]

 

 

ダウラギリⅡ 右後方はダウラギリⅣ