1982年 カモシカ同人 ダウラギリⅠ峰 8167m
北壁ペアールート初登攀

斎藤 安平

 ダウラギリⅠ峰と当会との関わりは1972年のアルプス・シルクロード登山隊に始まる。1970年:グループ・ド・モレーヌ(GDM)を中心とした隊とイラン山岳協会の交流が始まり、1971年:イラン山岳協会事務局長が来日、その際御在所岩場に当会が接待し、アルプス・シルクロード隊の影山淳、山田巌等と顔つなぎをする。このとき、斎藤はまだ新入会員として参加していた。

 1972年9月イラン、アラム・クー(4840m)北壁登攀中に影山が墜落し重傷を負い、イラン山岳協会の救助を受ける。GDM,当会のそれらの縁が繋がり、1973年「日本・イラン合同ヒマラヤ計画」が日本山岳協会の初の主催として、ダウラギリⅠ峰ペアールートが決定。1975年:3月ペアールートの偵察(田村隊長、影山淳、イラン2名)を実施するもネパール政府がイタリア隊にダウラギリ北西稜(ペアールート)を許可。やむなく日・イラン合同隊は1976年のポスト・モンスーン期のマナスルへ目標を変更し、影山が登頂者になった。

 1982年のカモシカ同人ダウラギリⅠ峰ペアールートの計画を知った影山が、群馬の八木原氏に斎藤安平を紹介した。斎藤も熱心にプッシュ、参加となった。斎藤にとってはヒマラヤ初見参で登頂者になった。(編集部 記)

 

隊  名:カモシカ同人・ダウラギリⅠ峰登山隊

メンバー:斎藤安平、×隊長・佐々木徳雄、高橋好輝、登攀隊長・八木原圀明、宮崎勉、山田昇、小松幸三、松永幸雄、村上和也、他9名

期  間:8月14日~12月中旬

行動概要

8月14日斎藤他5名(先発隊)日本出発、27日:ポカラからジョムソン街道経由キャラバン開始、

9月10日~21日:ミャグディコーラ上部4600mにBC設営、9月22日:C1(5200m)建設、9月29日:C2(6000m)建設 アイスフォールの上のプラトー、10月2日:C3建設(6700m)「梨」右側末端、10月11日:C4(7200m)建設「梨」上部、10月11日:C5(7550m)建設 北西稜、

10月16日:C6(7750m)最終キャンプ建設、

10月17日:第一次アタック隊 7950m地点まで、

10月18日:第2次アタック隊(山田、小松、斎藤)11時20分登頂。

10月24日:帰路キャラバン出発、ミャグディコーラ経由

11月10日:カトマンズ帰着、解散

登山活動

9月21日:BC開き、翌日から3名ずつ、5チームに分かれ登山開始、

26日:C2へのルート工作中、板状な雪崩で八木原登攀隊長ら3名が約150m

流され隊長は右足靱帯損傷等のケガをしてしまった。私達のチーム(山田、阿久沢、斎藤)と交代、翌27日よりC2へのルート工作を開始した。

30日:前日C2建設を終え、梨の下端を目指し13Pザイルを固定し、10月1日BCへ下った。次のチームはC3まで7Pを要した。BCからはC2~C3の一部頂上付近を除く全てを見渡せ、ルートの進行状況がよくわかる。

10月7日、梨の下端のC3から梨の岩場を右に回り込み登る。大量のフィックスロープ、スノーバー、ハーケン等を担いでの登高はかなり苦しい。雪壁に見えたルートは岩も多い。梨の頭7200m、薄い雪を踏み固めてC4を建設。

阿久沢はC4まで達せず下降したので、2人だけのC4泊まりだった。翌8日最初の難関、いかにして北西稜へ抜けてC5を造るかである。岩壁が北西稜まで続いている。稜直下は帯状の壁で、左側にあるクーロアールを目指す。岩の上には薄く雪が付き、登りづらい。

傾斜も上に行くにつれきつくなる。ハーケンを打つリスが少なく、探すのに15~20分もかかる。昼過ぎにクーロアール入り口から1Pのところに達し、山田が1P登り、露岩にリスを探していたら30m程滑落して軽いショックで止まった。もう少し落ちれば私のセルフビレーも抜け、一緒に落ちたと思う。今日はここまでとC4に戻った。

10月9日BCと協議して、右側の雪面から稜線に抜けることになり、前日のフィックス終了点まで登り、回収しながら4P岩の上に薄く雪の載った斜面をトラバース、更に雪壁を半Pで14時稜線に出た。

C5予定地7500mだ。稜線からはこのルートの核心部、おそらく過去9隊の成功を阻んだと思われる3つの岩峰が良く見え前途多難を感じさせた。この日はC2まで下降、翌日BCまで下降し休養する。
この間2チームによりC5建設、核心部の岩峰を突破C6(7750m)の建設が行われた。

ダウラギリⅠ峰・北壁ペアールート

10月17日、第一次アタックが高橋、松永、村上の3名で行われたが時間切れで8000m付近にて中止。

同日、山田、小松、斎藤の3名がC6に入った。補給ルートは弱く、天候は夜半から崩れ気味で、頂上アタックは今回のみになった。

10月18日の朝は風雪気味で出発も遅くなってしまったが、頂上が近いという安心感でとにかく登り続けた。3人共快調で思ったより早く、知らない内に頂上へ着いてしまった。簡単な記念撮影、10kg近くの岩屑を集めて、30分後下山にうつり、その日はC6泊、翌日C6、C5を撤収C4まで下降し、一気にBCへ下り21時着。前日、下から上げた水牛の肉にありついた。

帰りのキャラバンはミャグディコーラを下ったが、ちょうどダウラギリを一周したことになる。カリガンダキを遡るジョムソン街道とは一変して、ネパールの山村の雰囲気を十分味わうことができた。

[会報99号(2009年9月)より]

ダウラギリⅠ余談

斎藤は、帰国後のテレビ出演(ビッグ・スポーツ)の際に、「大分天気が悪くて、最初周りの山はあまり良く見えんかったんですけど、まあ山田が一度登っているもんですからね『ここが頂上だよ』と言われて“ああ、これで終わったな”と思いましたネ。ほかに高い所はなかったし」と、素っ気なく言う。

(八木原圀昭著「8000メートルの勇者たち」より)