1977年 マッタ―ホルン(4478m) 北壁冬季登攀 

山田 巌

期 間 :1977年2月22日~3月25日
メンバー:山田巌、×隊長 藤原八十八(GDM)、松林芳弘(GDM)
「冬の北壁を登ろまいか」と言い出した影山はイランとのマナスルに参加、会は50周年でヒマラヤ計画と、メンバーが集まらない。計画が頓挫しかかった時「長野のGDM会員2名が参加したい」との連絡が入る。
事務局はGDM、ルートは72年に山田が登ったマッターホルン北壁、天候の安定する2月中旬~3月初旬と決定し、最大の難関である勤務先の休暇を取付る。

 2月22日 前日、長野に出発、GDMの歓送会を受け、2月23日午後チューリッヒ着。斎藤安平の待つストュトガトルに向かい、スネル・スポーツで登攀用具を購入、26日、ツエルマットに入りホテル・バンホフに宿をとった。
好天が続いている。好機を逃がさぬうちに取り付くことにした。

 3月2日:ツエルマット~ヘルンリSAC小屋 午後ヘルンリSAC小屋にはいった。薪ストーブ、薪も有った。夕食後、余った食料、パスポート№が記入された計画書をケースにいれデポし、別室の毛布を借り眠りについた。

 3月3日 停滞

 3月4日:ヘルンリ小屋~下部雪壁 7時小屋発、小屋の裏手からマッターホルン氷河にはいる。膝までのラッセル、氷壁は深い雪に覆われていた。ピッケルのシャフトは一杯にもぐり、蹴りこむ靴は半分埋まる。登るにつれ傾斜は強まり、13時、上部岩壁の岩が雪面に顔を出した。

雪壁と混る急峻な斜面をトラバースし、岩稜を乗り越すように角を廻り込むと、今日初めて残地ハーケンを見つけた。24P目か?ルートに間違いなさそうだ。クーロアール入り口に続く大きく湾曲した滝壺のような雪田に入る。

16時、更に2P進んだところで行きづまった。20cm程の平らな岩の出っ張りに、「ここにしよう」。ザイルを張り、ザックをハーケンに吊るし、ツエルトを張り、アイゼン着けたまま半シュラフを膝に巻き付け座りビバーク。

  3月5日:大クーロアール 快晴 8時出発。トップ松林、食料装備は山田、藤原が背負う。大クーロアールはアンサウンドで、アイゼンを刺すとバラバラと欠け落ちた。4Pで核心部をぬけ、15時、ヘルンリ稜から落ちるルンゼ右横の、雪の付いた岩稜を登り、岩壁の基部のテラスに達する。ビバーク跡があった。

上部は岩壁でハーケンが3本連打され、左は切れ落ちたスラブだ。右下にしっかりとしたバンド。松林がスラブのトラバースを試み、行けそうだという。ビバーク跡を削り、3人のベンチを造る。ツエルトをかぶったら18時だった。座り姿勢でビバーク。

 3月6日:上部岩壁へのトラバース 快晴 8m登り右下にトラバースしてスラブに入る。氷が張り付き、高度感が威圧する。ボルトを1本打ち加えてトラバースを終え、対岸の岩稜の裏側に廻り込み3Pでトラバースを終了。今日もヘリコプターがやってきた。Bonattiルートに接するこの辺り、岩角に長谷川氏の切断した30mのザイルが引っかかっていた。彼に持って帰ることにする。

「雪壁に出た」と声が降ってきた。右に回り込んだところで再びビバーク跡を見つけ、3泊目のビバークサイトにした。標高4200mの切り立った雪壁にチョコンと座っているだけだがツエルトは天国だ。

 3月7日:山頂~ソルベイSAC小屋 快晴 頂上に続く稜線が見えた。藤原、山田、松林の順で、雪は膝下ほどで、稜線直下はガラガラの岩場となっていた。3P左にトラバース。ボナッティが65年冬、単独登攀した時、涙して抱き着いたという十字架が見える。

12時30分、56P目?イタリア側山頂に立った。写真を撮り鞍部で紅茶を沸かす。頂上に人が立っていた。彼は「1日で北壁を抜け出てきた」と、紅茶を飲むとサッサと下山していった。14時、ヘルンリ稜にルートを採り、彼のトレースを使い、真っすぐに下り17時、ガスの中に黒く佇むソルベイ小屋に着いた。彼のトレースは真っすぐに下っていた。

 3月8日:ソルベイSAC小屋~ヘルンリ小屋 東壁をヘルンリ稜に沿って出来るだけ下降、下部で稜線に出ることにし、200mほど雪面を降る。雪が腐ってきたので露岩にハーケンを打ちザイルで80m降り、稜線側にトラバースを始めた時、岩上の雪がはげるように山田の頭上に降ってきた。簡単に吹き飛ばされ岩庇の下に叩きつけられた。左肩を軽く脱臼、バイルを無くしていた。

露岩まで戻りボルトを打ちビレーを取りお茶を沸かし、日蔭になり、雪がしまるのを待った。下から一直線にヘリコプターが(救助に)飛んで来た。恥ずかしながら露岩の上で飛び跳ね、元気なところを見せて、お引き取り願った。そのまま下降を続け20時、懐かしのヘルンリ小屋の扉をあけた。

 3月9日:ヘルンリ小屋~ツエルマット  ロープウエーの駅からパウラおばさんに電話を入れると怪我は?、手足はと何度も聞く。片言で全員元気、問題ないと答える。宿の2階から日章旗が迎えてくれ、夜は滞在者による手造り料理のパーティーとなり、そこで私達の行動は望遠鏡で全てお見通しであったことを知った。
お世話になった斎藤君、蟹江女子、パウラ・ピンナーおばさんに感謝。

【会報95号(2007.7)より】