9月7日~11月3日、25000kmシルクロードの旅
L.影山、山田、押谷

 イタリア~ユーゴ~ブルガリア~トルコ~イラン~アフガニスタン~パキスタン~インド~ネパールと10カ国を3ヵ月かけて走破した。

67日間のシルクロード 旅の相棒「ビートル」

 ローマを出て10日目、欧州とアジアの接点であるイスタンブールに着き、タクシム広場の近くのホテルに泊まった。いよいよこれからシルクロードに入るわけである。イスタンブールは紀元前にギリシャの植民地として栄え、ビザンチウムと呼ばれた。330年ローマのコンスタンチヌス皇帝が拡張して首都と定めコンスタンチノープルと改称して以来1100年間に渡りビザンチン文化の中心として栄えた都市だ。

 翌日、マヤ・ソフィア寺院にでかけた。ローマ帝国が分裂し、東ローマ帝国のユスチニアス皇帝が537年の建設で、「我はソロモン王をしのげり」と叫んだと伝えられる壮麗な聖堂だ。
1453年コンスタンチノーブルは回教徒軍によって、攻略され東ローマ帝国は滅亡する。マルコ・ポーロの東方見聞録の中にも、この寺院は出てくる。地球上の街で、最も愉快な街はイスタンブールだ、と書いた本を読んだことがある。その通り。トプカピ宮殿を仰ぎ見るガラタ橋と、その最寄りの大バザール界隈は何日ぶらついても愉快で吹き出したくなる。

 スイカ売りに来た少年は、言い値の半分でもニコニコして受け取るし、(しまった!) コートは2日間にわたって値切りに値切って135ドルを35ドルに引き下げさせて買ったり、店主は何度ベストプライスと言ったことか・・当地のチョットした買い物には、数日かけるのが好ましいようでした。
 イランでの予定は、カビール砂漠、ピカール砂漠の中間を横断する主計画が、アラム・クーでの事故で、イランでの殆どの計画を断念する羽目になった。

 イスファファンによってからテヘランへ。アディレ氏、サディレアン中将、ノルジー氏らのイラン山協に大変なお世話になった。又三井物産の丸子さんにもお世話になった。丸子さんは一橋大の山岳部OBでヒンズークシュ遠征のメンバーでもあった。(70mも垂直に墜落、確保していた押谷は、体重45kgで影山の半分程の小男である。どう考えてみても、インシャラー(何事も神のおぼし召し)である。後日、影山はこの事故のきっかけもあり、1976年イラン・日本合同マナスル遠征隊に参加、登頂隊員になった)

 翌1973年秋に、影山の救出に陸軍の大型ヘリコプターを出動させてくれたサディリアン将軍は国連のアジア極東地図会議にイラン代表団の団長として来日。影山は早速東京に出向き、前年のお礼を述べ、約一週間将軍を富士山や信州へと日本の山々を案内して回った。この時、長野の吉沢一郎氏より、ヒマラヤ合同隊の話が出て、後はトントン拍子に計画が進められた。

 イランからアフガニスタンに向かう。砂漠のハイウエーは遠く両側に、湖の蜃気楼を追いかけて走った。アフガニスタン西部の古都ヘラトの街に、夕闇の迫る中到着した。イランの地方都市とは打って変わって、電気の光が殆ど見当たらない。街中は暗闇であっても大変な人混みで、二輪馬車が何台も駆け抜けて行く。私達の自動車はクラクションを鳴りっぱなしの、ノロノロ運転でホテルに着いた。

 ヘラトは紀元前8八世紀から存在し、その後いくたの興亡を繰り返している。13世紀にはジンギス・ハーンが攻め入り、40人を残して他の全ての人々を殺した。その後15年間は、人口は増えなかったと言われる。
14世紀は同じ蒙古系のチムールがきて市街を容赦なく壊し、人々は何人も殺されたと言う。

 歴史ある素朴な古都に一泊出来たことに、この上なく感謝してヒンズークシュ山脈の西端を回り込んでカンダハルへと向かった。砂漠の蜃気楼は相変わらずだった。途中ハイウエーからガズニ王朝の冬宮殿を見に南下、引き返す時に体内磁石を頼りに走り、行きかう車は全く無く心細いことはなはだしい。

 カンダハルから1日でカーブルへ着いた。1週間の滞在は北のバーミアンにも足を延ばしカイバル峠を越えパキスタンへインダス、ガンジスを越えると最終目的地カトマンズに11月13日到着した。ローマより67日間だった。

(山田)


[登山隊中間報告書、月報ANBAYO 34号(1977年11月)より]