マルコ・ポーロの歩んだシルクロード踏査行

マルコ・ポーロは本当に中国へ行っている
14,480km 自転車単独行

2003年~2010年の記録

影山 淳

はじめに

日本人の多くがシルクロードという言葉に古のロマンを感じる。私も例外ではない。「1972名古屋山岳会アルプス&シルクロード登山隊」を結成して、欧州アルプス登攀後、車でローマからカトマンズまでを走破した。

そのきっかけは、1966年の深田久弥、長沢和俊、鈴木重彦のシルクロードの旅と、前年の長野のGDM・1971年西アジア登山探検隊(隊長、田村宣紀)に感化されたものであった。この生涯忘れえぬ楽しかった旅から30年後の2003年に再びシルクロードへ向かった。仕事を継続しての、毎夏休みの1ヶ月を充てた

二度目のシルクロードは13世紀の探検家でもあったマルコ・ポーロの歩んだ道を辿ることを目的とした。また、各地にはどんな人々がどんな暮らしをしているのか、どんなお茶を飲んでいるのかも知りたかった。ゆっくり進む自転車を選んだ。正解であった。

幸いにも当計画終了後の2011年11月に東京新聞より「我、日本のマルコ・ポーロとならん」著を出版することができました。当記は名古屋山岳会創設80周年を記念し、マルコポーロの「東方見聞録」に記された13世紀の主要な地と現在の記録を記しました。

大英図書館のフランシス・ウッド女史が1997年に著した「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」は大変興味を持って読んだが数多くの誤認をしている。

そうしたことも踏まえて旅であった。

 

  • 2003年7月~8月 トルコ・アヤス~イラン・タブリツ  1509km
  • 2004年  〃   イラン・タブリツ~イラン・キルマン 1560km
  • 2005年  〃   イラン・キルマン~イラン・タイバド 2420km
  • 2006年  〃   パキスタン・イスラマバド~中国・カシュガル 1534km
  • 2007年  〃   タジキスタン・ドシャンベ~タジキスタン・クルマ峠   475km
  • 2008年  〃   中国・カシュガル~中国・敦煌    2416km
  • 2009年  〃   アフガン・シバルガン~アフガン・ボザイグンバース1150km
  • 2010年  〃   中国・敦煌~中国・北京       3416km

合計                         14480km

マルコ・ポーロの歩んだ道。1271年暮れに小アルメニアのライアス(現トルコ)を出発し、1274夏に元の上都に到達。同じ道を自転車で8年かけて14480kmを走破。

 

マルコの記述に間違いない

「東方見聞録」(都市カマディーに付いて)、2日行程の傾斜地を下りきると一大平原にさしかかる。 と記されている。

2005年7月17日。(イラン東南部)

薄暗いうちに出発する。気温は14度と快適である。10キロの登りが続いてなだらかな峠に達すると、一転下りとなる。今年初めてギヤがハイトップに入る。スピード計は時速43kmを示した。

気温は20度、高原のすがすがしい空気である。下り勾配の道がさらに続く。マルコの記す「二日間にわたって下ると……」と記された場所である。英国のヘンリー・ユール著の概要図にも記されており、マルコの正確な描写に感心させられる。実際に通った者しか書けない内容である。

下りが続きガンガン飛ばすうちに、またも後輪がパンクした。予備のチューブを二本用意していてすぐに取り替えるわけだが、一日に三回パンクするとアウトである。したがって、水がある場所に達するたびにこまめにパンク修理をしておかないと動けなくなることになる。このときも最後の一本で何とか事なきを得た。パンクした場合、前輪なら五分もあれば済むが、後輪は大変である。積荷を降ろして、車体をひっくり返す方法が早いのだが、大きな荷物なのでつい面倒になってしまう。

 

地球上で最も熱い地帯を行く・寒さより熱さが恐怖である

2005年7月22日

レオパール平原の大傾斜帯は西の山肌で終り、山脈の間を抜けていくと西方に再び平原が現われた。マルコの記述通りであり、あまりの正確さにびっくりする。やはりマルコはここを通っていると確信する。

昼になり、あまりの暑さに走行中止。地平線の彼方に連なる山脈まではまだ20kmはあろう。しかたなく、砂漠の橋の下にもぐり込んだ。

ところが、陽射しは避けられるものの、焼けた砂の平原をなめるように吹いてくる熱風は80度を超える高温である。私のお茶の乾燥機械屋という職業柄、熱風に手を当てればその温度はわかる。

出るに出られず、休んでいてもいるところがない。苦しくて、これは死んでしまうぞと真剣に考え出した。こんな経験は初めてである。

寒さへの対処は何とかなる。真冬のモンブラン頂上や、ポスト・モンスーン期のマナスルの頂上などで、マイナス40~50度を経験している。寒さに対してはいっぱい着込み、テントに入ってストーブを焚けば平気である。更に周りは雪と氷の水のプールである。しかし、熱さはどうしようもない。まさに地獄である。

オーレル・スタインは三度に亘りタクラマカン砂漠を探検している。いずれも11月になり砂漠に入っている。気温はマイナス42度にも達したことがあった。

水を凍らせてラクダにくくりつけるには、冬しかないのである。

私はヒマラヤや欧州アルプスで寒さに震えあがっていた。スタインの記録と、こうした砂漠の熱さを体験すると18世紀~19世紀の探検家たちの偉業に感服した。

東方見聞録」コルモス王が貢物を怠ったので、ケルマン王は騎兵千六百・歩兵五千を仕立て、レオパール地方を横断してコルモス王を急襲せしめようとした。・・・林中を選んで一夜を明かした。翌朝になって、さて進発しようとしたその際、はからずもおりからくだんの熱風に襲われることとなり、全員すべてが窒息死し・・・。 

と記されている。私は世界屈指の猛暑地方に突入した。当夜はルダンの町に達した。ユネス(53歳)さんの家に泊めてもらった。今日は昼に52℃に達し、熱さで各地で死者が出たとTVが伝えていた。

覆面(ボルケ)で熱風50度の熱風を防ぐご婦人。ペルシャ湾岸にて2005年8月

 

2005年7月25日。(灼熱地獄ペルシャ湾岸を行く)

低地の湿気を含んだ空気は、どこに隠れてもうっとおしい。今日の行動は、世界で最も熱いといわれるペルシャ湾岸の走破である。日中に自転車でこのコースを走るなど、まさに狂気の沙汰である。陽が照り出さないうちにバンダルアッバスにたどり着かねばと、早朝に出発する。

朝方は曇天であったが、すぐにカンカン照りとなってきた。まだかまだかと必死にペダルを踏む。ほほに当たる風は熱風である。ここで突然、昨日の覆面女性の謎が解けた。顔全体を覆っていないとたまったものではないのだ。50度の外気は体温をはるかに超えている。私もサングラスで前方を見えるだけにして、体の全面を覆い隠して走っている。日本の暑さならば肌を露出するのが常識であるが、当地は逆なのである。

やっと市街に近づくが、意識がもうろうとしてきたので、大きな木陰で一休みする。気合を入れ直して再出発するも、ポリスに市街まであと5kmと聞かされ、ガックリ。倒れる寸前状態でのあと5kmは、フルマラソンの38km以降の感覚である。もう自転車に乗れない状態に陥ってきた。ギブアップである。別のポリスが、「ホテルならあそこにあるよ」と指さしてくれた。

フルーグ・バンダル・ホテルは、街道から北へ100㍍ほど行ったところにあった。へたるように両開きのガラス戸を開けると、冷気がスーッと流れ出てきた。予想以上の高級ホテルで、35万リアル(40ドル)であった。通された部屋はスイート・ルームで、二部屋あった。エアコンがガンガン効き、地獄から天国にたどり着いた感じだが、私の貧乏旅には贅沢すぎる部屋であった。

しばらくすると英語で呼び出された。新聞記者が女性の英語の通訳を連れて現れた。記事は木曜日に掲載予定とのこと。私の出発後である。居合わせたホテルのオーナーは宿代は全て無料にするからゆっくり休んでくれ、と伝えられた。その後も、TV、地方紙の取材を受けた。

前年に発刊された、イランの最も権威あるエットラート紙に私の記事が掲載されていて、この新聞を常時携えていて、「この紋所が目に入らぬか・・・」と提示したお陰である。

 

世界で最も緊迫した地を行く

2006年7月31日 パキスタン北部インダス河―ギルギッド

マルコの通過道とは少し違うが、アフガン情勢が悪化しだしたので、今年は先回りをすることにした。

イスラマバードから自転車を漕ぎ、インダス河沿いのカラコルム・ハイウェイ(KKH)を中国カシュガル目指して進んだ。私の長年の憧れのルートである。

ハイウエイとは名ばかりで、世界で最も危険なルートである。自然災害と人為的な危険が相まっているルートである。私の警護に五日間にわたり沿線警察が警護してくれた。安宿では警官が添寝して警護してくれた。それだけ危険である。

ギルギッドを予定通り、早朝6時に出発する。市街を5㎞程上る。憧れの町とは裏腹に、汚く悪臭の立つゴミの山に目を背けながら河に達した。ギルギッド河である。二本の吊橋が架けられ、土のうのトーチカが橋際に設えられ、鉄かぶとマシンガンで武装した兵士が潜んでいた。カメラを向けたかったが、たじろいだ。

夕暮れの魔の山、ナッガ・パルバートを背にして、カラコルム・ハイウェイより

2007年8月

更に二人の衛兵が橋を守っていた。重要な軍事施設であることが判る。この橋がなければ激流を渡ることは不可能である。粗末な板の隙間から激流が手の届きそうな位置まで増水し、水しぶきを上げて駆け下っている。

この河は、ギルギッドの町の入り口でフンザ河と分かれている支流の一つであるが、余りにも大きな流れに圧倒された。源は北西のヒンズークシュ山脈である。

当地はアフガニスタン、パキスタン、インド、中国の国境紛争に絡み、アフガンの崩壊から、いまだ、ビン・ラーディンが捕まっていなく、世界でも最も緊張した地域である。(その後、私が通過してきたアボタバードでビン・ラーディンが 米軍により殺害されたニュースが世界を駆け巡った。(2011.5)

ギルギッドにはもう一つの楽しみがあった。私のこの計画の最大の支援者である、三井物産、元専務の丸子博之さんが定年後に、当地ギルギッド国際大学で教鞭を採っていると聞いてきたからである。もしや、居るかも、と思い大学に立ち寄る。丸子さんには1972年の私のイランでの山岳遭難時(アラムクー北壁)以来お世話になっている。

大学は、ギルギッドの北を流れる川の対岸に位置する。敷地は広く確保され、煉瓦塀で囲まれたキャンパスは建設途上と言ったところである。立派な校舎が建っているものの、これから各種の施設が建つであろう思う。資金が途絶えて、中途のような気もする。

立派な校門の衛舎で、「日本のミスター、マルコはいるか」と尋ねた。最初は「居る、九時過ぎに出勤するから、待っていろ」となった。

私が丸子さんの写真を見せると、「この人ではない」となった。女性の日本人が居るようである。九時まで待とうか迷った。しかし、諦めた。

これ以上遅れては、とても4700㍍のクンジュラブ峠を越え、カシュガルに到達できないからだ。

 

桃源郷フンザ

ギルギッドを過ぎるとフンザと言われる地方に達する。

私は昔、何かの本の一節を思い出した。「長かった厳しい冬が過ぎ、フンザの里に春がやってきた。アンズの花で里が染められ、淡いピンクの回廊となる・・・」

行き交った外国人も近隣の住民も、「フンザに行って来た」。「私は、パキスタン人ではない、フンザ人だ」。とフンザは特別な桃源郷の如く語られる。

私が長年、一度は訪れてみたいと思ってきたそのフンザが近付いてきた。私だけではない名古屋山岳会の鈴木紘さん(故人)は生前、二度にわたりフンザ、ギルギッドを訪れている。シルクロードの要衝として古くから歴史に刻まれている町である。日本人で初めて訪れたのは1902年の大谷探検隊である。カシュガルータシュクルガンーミンタカ峠を越えてきた。

狭い谷間が真っ赤な岸壁帯となった。しかし、フンザ河を隔てた対岸は緑野である。こちらだけが不毛の荒涼とした月世界である。そんな谷が広がり、川の州に大きな建物が見えてきた。音楽が聞こえて、学校であった。看板も無かった。

こんな立派な学校を各地に造るべきだと思う。後になり判った事だが、こうした教育施設は、パリに本部がある、イスマイリー派の支援をしているアガ・ハーン財団の支援によるものであった。

フンザはやはり違った。桃源郷であった。女性が開放的である。チャドルは被らなく、スカーフも付けていない女性が多い。若い男女がにこやかに語り合っている光景もしばしば見る。男性の服装も、西欧化して、ジーパンやキャップを被っている。ラホールやイスラマバードとは違う。

フンザに付いて少し触れよう。1947年8月14日、インドからパキスタンが独立する。当初は十州が参画してパキスタンを形成した。1971年には東パキスタンがバングラデシュとして独立する。1974年にはパキスタン北部には十の王国があったが、徐々に中央政府に併合されてゆく。フンザは最後の1974年まで王国として独立していた。その首都がこれから向かうカリマバッドである。

2006年8月1日 桃源郷・フンザ

予想外に、カリマバッドの町は、KKHから遥か彼方上に位置していた。入り口の商店で聞くと、2~3㎞あるという。スキー場並みの急坂を登る元気はなく、ボケーッとしていると、店の主人が「俺のトラクターに乗って行け」となった。料金は200ルピー(400円)。荷台で自転車を必死に支えて急坂をカリマバッドの町に達した。 町は、山脈を背にした南面の急な斜面にへばり付く様に展開していた。

世界各地からの観光客が9.11のニューヨーク・テロ以降、激減したと聞いた。

町並みは西欧を思わせる垢抜けた雰囲気を漂わせている。今夜の宿泊は、数軒交渉して、ツーリスト・パーク・ホテル、500ルピーー(千円)に決めた。

長らく禁酒の生活を強いられてきたが、やっとビールにありつけた。中国製で、クンジュラブ峠を越えて運ばれてきたものである。心地良い酔いに浸った。

帰路になり気が付いた。背後には、ラカポシ峰(7,788㍍)が沈み行く夕陽を浴びて紅に染められている。そして、左手に続く峰々の間に、ピラミッド形をした独立峰が目に付いた。地元民に聞くと、「ディラン」と返ってきた。

びっくりした。青年時代に北杜夫の著書を読み漁ったことがあり、その中に、「白きたおやかな峰」という本があった。彼の著作の中で一番好きなものである。その著作の舞台となったのがディラン峰である。数十年前の記憶が瞬時によみがえった。大きな感動となった。

フンザ王国宮殿 バルチット城。 (自身のスケッチ)

クンジュラブ峠(4,733m)の越境はバスに乗せられた

2006年8月9日 カラコルムからパミールへ

いよいよ、今年の最大の難関、クンジュラブ峠(4733㍍)を越え中国領に入る領域に達した。

パキスタン側の国境に町スストのホテルを出る段取りをしていると、マネージャーが「クンジュラブは自転車では越えられない」と言った。そんなばかな事はないであろう。多くのサイクリストが越え、著書も読んできたのに、と無視して出入国管理事務所に行く。

今日、国境を越える人は、独自のマイクロバスで来ているイタリア人15名の団体と個人旅行者では韓国人女性、英国人男性と私とパキスタン人5名の8名である。

9時に通関が始まると聞いていたが、8時過ぎに始まった。厳しい検査でほとんどの人がバッグを開けられていた。

私の番になり、自転車を曳いてカウンターに行く。「バスのチケットを見せろ」と言われた。「チケットは持っていない、俺は自転車で越えるんだ」と言ったら、即「駄目だ、チケットを買って来い」となった。ボケーとしていると、オヤジが現れ、1,500ルピー出せと言われた。言われるままに残り少ないルピーを出した。

トヨタ・ランクル2台にそれぞれ乗る。自転車は前輪を外し、ハンハンドルの向きを変えて積み込む。積み込みを手伝った男にチップを請求され5ルピー払う。

私は英国人の青年と同席となった。彼はインドに留学していて、夏休みで、パミールからロシア経由で帰国すると言った。

車は断崖絶壁を土埃りをもうもうと上げ、中国へ帰る空のトレーラー五台を追い越すのに苦労した。予想を遥かに超える険路で、最後の登りは、ジグザグを繰り返す。五千㍍近い空気の希薄な高度を力強く登るトヨタ車が頼もしく感じた。次第に傾斜が緩み、なだらかな山上に出てきた。クンジュラブ峠も間近であろう。右手の山腹にはパキスタンの国境警備兵舎等の建物が数軒出てきた。寒く酸素も希薄で駐屯兵も大変であろう。

スストを出て2時間でクンジュラブ峠に達した。舗装道路で世界最高地の峠である。青年時代からの憧れの峠である。パキスタン側の急峻な山肌は、彫刻刀で削り落としたゴチック建築のミナレッツの様相を呈してきたが、この峠に達すると一転、なだらかな草原に変わった。雨量の関係である。数億年に亘る自然現象の違いである。

パキスタンの出国スタンプは既にスストで済ませてあり、パ中国境では、中国側の手続きのみである。国境でのんびりできるであろうと思ってきたが、わずかな時間しか与えられず、数枚のスナップを撮り終えると、運転手にせがまれて再び車に乗せられた。中国国境から国境警備兵が添乗してきた。中立地帯の警備体制である。許可を得ないと車外に出れないことを知らされた。立ちションも自由に出来ない状態である。

この地を自転車で越えようとは無茶な話であった。2001年9月11日のニューヨーク・テロ以降こうなったと聞いた。「ちゃりんこ西方見聞録」朝日新聞社の著者川端祐介・るり子夫妻は中国側からこの峠を越え、インダスに降りている。

私の当初の目的は、峠を越えて下る途中から、左に入るカラチャクルス渓谷に入り、ワクジル峠を往復する計画であった。この谷は大変重要な谷で、シルクロードの要衝である。

谷の最奥がワクジル峠である。西からワハーン渓谷を抜けた玄奘三蔵がインドからの帰路に越えてきた道である。(スタインの記述であるが、その後の調べでワクジル峠でなくベイク峠が濃厚)更に、南に連なるクンジュラブ山脈には、ミンタカ峠(4709㍍)とキリック峠(4765㍍)がある。ギルギッド、カシミール、インドへの道である。

日本人として特筆すべきは、大谷探検隊が1902年にこのすぐ西のミンタカ峠を越えてギルギッド、スリナガルに至っている。

国境管理事務所のあるタシュクルガンまでは囚人護送車まがいの扱いであっ た。この一帯はターグドゥンバシ・パミール高原と言われる地帯になる。サリコル地方とも言われる。なだらかな草原には、牛、ヤクの放牧が豆粒のように遠望される。

その後、タシュクルガンを経てカシュガルに達した。

クンジュラブ峠(4733m)国境 左パキスタン(白い路面)、右中国(黒い路面)

 

戦乱のアフガン北部を横断―パミールへ達する

2009年7月19日

ここシバルガンが本年のマルコ・ポーロ踏査のスタート地点となった。アフガンでの自転車走行は断念した。車をチャーターしてこっそり踏査することにした。

シバルガンはアフガニスタンの北西部に位置し、トルクメニスタン、ウズベキスタンの国境に近いゴーズガン州の州都であり、古代バクトリアの歴史を秘めた町である。『東方見聞録』に「サプルガン」と記されているのが現在のシバルガンである。

当初の予定では、マザリシャリフから空路でヘラートまで飛び、2005年に到達したイランの国境の町タイバドに接するイスラムカラまで行くつもりでいたが、空路が三週間前から欠航となっており、しかもヘラートからシバルガンまでの陸路は、タリバーンの影響下にあって危険であると判断し断念した。したがって、やむなく当地シバルガンが今年の出発点となった。

町中心部の警察本部の前には、国際治安支援部隊(ISAF)の物々しい装甲車両が十台ほど臨戦態勢で警備していた。タクシーを降りて手を振りながらカメラを向けると、いきなり機銃が私に向けられてきた。自爆テロが頻発していて、近寄る者には俊敏に警戒している様子が窺われた。しかし単なる外人観光客であろうと思ったのか、二台の装甲車の兵士は逆にカメラで私を写した。

『東方見聞録』には、当地の特産物として、「メロンをヒモ状に切って乾燥したものが多く売られていて、砂糖より甘い」と記されている。町の住民に聞くと、今でもあるが、残念ながら出回るのは秋だという。大きな町に行けば売れ残りがあるかもしれないとのことで、後日探すことにした。

翌日、プーリ・コマリでメロンの乾物を見つけた。マルコはここを通過している証拠である。

 

世界の秘境ワハーンに入る

2009年7月31日

最奥の集落サルハドまで車で入り馬を連れた歩きに入る。ボラッカ、ランガールに泊まり、今日は歩き始めて三日目となる。

昨夜は草原を流れるせせらぎのほとりにテントを張り、子山羊一頭を2,000AF(2,000円)で手に入れてカレーを作った。残りは茹でて塩漬けにして、今後の食料とした。

 我々の出発と、ミネラル塩をなめさせるために家畜を連れて下山してきて上部の草原に戻るワヒ族たちの出発と、たまたま同じになった。私が歩いていると追いかけてきて、ロバに乗れと勧めてくれた。今までは小さなロバをかわいそうに思っていたが、今度は自分が乗る破目になってしまった。少しためらいはあったが、初めてロバに乗った。

ロバは小さいながらも大変な力持ちである。人間の早足に匹敵する時速六~七キロの速度で進む。これは楽チンである。

行く手には広大な草原がひろがり、まさにパミール(世界の屋根の意)の景観となってきた。サルハドからここまでは上り下りの激しい険路であったが、これからはなだらかな道が多くなる。

草原の中央で一服となり、ワヒ族の二人の少年とおしゃべりをした。ズムラド君(12歳)の将来の夢は、学校に行くこと。一年中夏冬の牧地を移動していて、冬にたまにサルハドへ行くだけで、ここには何も楽しいことはないという。学校で勉強して大きくなったら先生になりたい、と話してくれた。

もう一人のハンババ君(11歳)は、学校に通っていて、夏休みだけここに来るそうで、大きくなったら彼も先生になりたいということだった。日本人に会ったのは私が初めだそうである。ちなみに、外国の名前をいくつ知っているかと問うと、アメリカ、カブール、アフガニスタン、パキスタンという答が返ってきた。

短い休憩時間が終わると、二人の大人に指示されて再び羊の群を誘導するために草原を駆けていった。700頭の山羊の群を少年二人に任せ、大人二人は我々と再び歩き出した。

パミールの牧童 ハンバハ君、ズムラド君  2009年8月

意外なのが、山羊の群の移動の早さである。時速4キロほどで、犬4匹と少年たちの見事な誘導で進んでいく。遠い昔から連綿と引き継がれてきた技である。

やがて、ワヒ族たちとも別れ、行く手の山肌から流れ出る大きな清流に達した。かなりの深さで、歩けば股下まで達する水量である。馬方に指示されて馬にまたがって慎重に進む。振り落とされては一大事と鞍にしがみついていたが、沢の中央に差しかかって、突如馬が足を滑らせた。私はもんどり打って馬から落ちて全身ずぶ濡れ。

馬方は私をしっかり抱きしめて、馬の手綱を放してしまった。「バカ、俺はいいから、馬を放すな!」と怒鳴ったが、後の祭り。私がカナヅチだと思って、馬方は懸命に私を助けようとしてくれたのだ。

馬はここぞとばかり逃げ出した。馬方とガイドのシェラリーが裸足のまま草原を追いかけていった。

私はぐしょ濡れの衣類を乾かしながらのんびり構えていたが、後で大切な手帳、帽子、杖、ハンカチなどを落としていたことに気づいた。カメラはとっさに難を免れた。やがて小一時間ほどで、馬を引き連れた二人が裸足のまま戻ってきた。数キロ追いかけて谷間に追い込み、ようやく捕まえたとのことであった。

シェラリー曰く、高度が4,000㍍もあり、荷を50キロも背負っていてそんなに逃げられるものでないという。しかし、追うのは人間である。

 

タクラマカン砂漠南沿「西域南道」を行く

― 偉大な探検家オーレル・スタイン ―

2008年8月2日 

民豊(ニヤ)の町で疲れが溜まり二日間の休養とした。

スタインの発見したニヤ遺跡はここから南へ60㎞のところであるが、入域許可、車の手配、高額な費用等、煩わしく諦めた。

それにしても、マルコは元より、玄奘三蔵や古の旅人たちの苦労が偲ばれる。ヘディンやスタインといった百年以上も前の探検者達の偉業にも感服する。スタインのニヤ遺跡を発見した記録を見ると、真冬の寒さは最低でマイナス42℃まで下がり、幾日も砂嵐の日が続いたと記してある。

私ごときは、クーラーの効いたホテルに、いつでも逃げ込めるわけで較べものにならない。

ホータン郊外

ウイグルの帽子屋、ホータン市内 2008年8月

 

灼熱地獄の砂漠地帯に突入

2008年8月4日

3泊した好幸福賓館を早朝6時に出発した。今日からチェルチェン以降の強行軍が予想され、余分な荷物を再度整理。ズボン、シャツ2枚、鍋、皿、整髪料、スキンクリームと大幅に減らした。その分、水を積まねばならないからである。

ニヤ河を左に見て20㎞進む。河は川と書くのに相応しい位の細い流れである。一帯は湿地帯となり緑地が道の両側に広がり、遠くに砂漠の黄色い山並みが遠望できる。奇妙な風景である。

草原には、久しく見掛けなかった放牧の山羊、牛類が放たれていた。

3時間で緑地帯を過ぎると、当地ニヤと天山山脈の南路に位置する輪台を結ぶ「砂漠公路」への分岐点に差し掛かった。この道はタクラマカン砂漠のど真中を貫く道で、近年にわかに作られた道路である。合流点に三角屋根の大きな建物が見えた。多分、竣工式に使われた記念物だと思う。この道路以外に、もう一本横断道路がある。これから向かう何日か先のチャルクリクからコルラに達する道である。いずれも500km前後の距離で、自転車では無理であろう。途中に水があれば何とかなるが、全くないと聞く。しかし、いつかは横断してみたいものである。

この日の日の出は8時45分。日没21時30分であった。(北京時間)

本格的な砂漠に突入した。12時過ぎに右の電話施設の建屋に唯一の日陰を見つけて一服する。

そして、ほんの少し行き水が少し流れる大きな橋を渡る。そして、逆風をまともに受けて進むもグラグラとして進めない。行く手は遥か地平線の彼方である。気温も四十度を越えている。手前の橋の下に逃げ込んだ。タクラマカン砂漠を甘く見すぎたことに気付いた。日没まで待機した。

23時30分、陽も西に傾き出発するが、全く調子が出ない。息がはずむばかり。闘争心が湧いてこない。そして熱い。体温と同じ気温になってきているが、意識もうろうとなってきた。

数日来の下痢が影響しているものと思う。大事をとって、五㎞毎に休みをとっての行進に切り替えた。道路標識が一㎞毎に表示されていて便利である。マラソンを思い出した。陽も沈み気温が下がってくると、体調も次第に回復しだした。無理をして倒れる可能性が大きかった。こんな夜中に砂漠の中で倒れても誰も助けてくれない。

夜半過ぎに、余熱の残るアスファルの上に仰向けにひっくり返り、いつしか目が覚めると、満天に星が輝いていた。これほどきれいな星空は見たことがないほどの輝きであった。

5㎞毎に、ひっくり返って休むペースで体もリズムが出てきた。行き交う車が時折あるが、ドライバーはさぞかしビックリしているだろう。お化けが出たと思うだろう。こんな夜中に砂漠の中を人間が自転車で走っているなどと誰も想像できないと思う。

ある時は、遥かかなたから車の光が見えだした。1時間くらいするとすれ違うのだが、止まってしまった。こちらを覗っているのだ。徐々に私が近づいて行く。

向こうは、砂漠で盗賊が待ち伏せしていると思ったようだ。

3時を過ぎると、寒くなりコートを着て走る。意識も次第にしっかりしだした。やっと夜が明けて、目的地のアンデルランガーに達した。右の大きな立派な施設は学校の様でもあるし、公路の事務所の様でもある。左の売店らしき軒先にへなへなと辿り着いた。朝早いのに、オヤジがすぐに熱いお茶「黒茶」を持ってきてくれた。これほどうれしいことはない。疲れ、冷えた体には最高の飲み物である。私の状態をオヤジはすぐに察したようである。一息してやっと「ラハメット」(ありがとう)言葉が出た。

これほど過酷な行進はペルシャ湾以来である。年齢がかさんでいるので尚更である。店はキャラバンサライ(隊商の宿泊施設)であった。

一日休んで、翌日出発しようとしたが、砂嵐で二日間沈殿した。真昼でも真っ暗くなる。猛烈な砂が吹き荒れる。当然車も動けない。ラジエーターが効かない。

山の吹雪なぞ優しいものだ。溶かせば水だからである。

「東方見聞録」 チャルチャン地方コータンからペムに至る間も一面の砂漠なら、ペムからチャルチャンまでも同じく砂漠の連続である。水質はいったいに悪くて苦味を帯びるが、所々に味のいい清水が見出される。敵軍が国内を通過するような事態にでもなれば、住民は妻子とともに家畜を連れてこの砂漠を二、三日行程の奥地まで逃げ込み、・・・。

 

辺境のやさしいポリス

2008年8月24日

当金山口という場所に達した。右から来る国道222号との合流点である。青海省の省都西宇へ通じる幹線である。合流点には何か商店でもあろうと思ってきたが、全くない。左側の山肌に採石場があるだけで何もない三叉路であった。車の量が二倍に増えた。

そして、三叉路のすぐ先に検問所があった。私の出現に数多くいるポリスの中で、ボスらしき温厚な男が大変親切に迎えてくれた。温かいお茶を持ってきて、外は寒いのでテントの中に招き入れてくれた。水、パンの補給をしてくれた。テント内は石炭のダルマ・ストーブが焚かれていた。真夏の昼だというのにストーブを用いている。冬はどれほど厳しくなるかは想像できない。標高は3500㍍はあろう。北緯39度を越えている。日本の秋田県の緯度である。

優しくしてくれたポリス達が、2㎞で峠に達し、後は長がーい下りだと教えてくれた。ブレーキをチェックしてくれた。これで下れるかと同僚達と何やら話していた。これで、本物の下り坂が待ち構えていることが分った。

急な登りで、歩きとなった。遠望できる先行しているトレーラーはちっとも登っていかない。わずかに動いている程度である。それだけ急坂である。途中で、放牧の山羊の群れを集める放牧舎を見に行った。1,600頭の山羊の群れは壮観であった。更に、馬、駱駝の放牧も見えた。

ポリスが2㎞と言った峠は、5㎞はあった。峠手前には、横転したばかりの石綿を満載したトレーラーがあった。運転手は寂しく佇んでいた。事故の名所であろう。行き交うトレーラーは私の歩くスピードよりほんの少し早いだけである。エンジンはうなりを上げている。急坂に加えて酸素が希薄なのが原因であろう。

峠は3648㍍の標識があった。どちらからも大変な急坂とみえて、全ての車が峠で一服して行く。私は酸欠の症状は出ないが、疲れで足腰が限界であった。空身で歩くならば差ほどでもないが、自転車を引っ張っていると変な筋肉が使われている。

大風山・青海省  砂嵐で埋められた国道

親切な警察官。中国の警察官は親切だ。

 

敦煌に達する

2008年8月25日

今日はいよいよ最終日である。敦煌まで100km弱である。谷間をクネクネと曲がり、川を左にみて進むが、水がどちらに流れているのか分からない。次第に上流に向かっていることが分る。両側の山は砂漠であり、幾度となくカメラに収める。風もなく、すばらしい景観である。谷を抜けると広大な砂漠となった。直線の20㎞を抜けると、右手にダムの堰堤らしき物が見えてきた。

このダムはどちらに水を貯えているのかと、思っていると、わずかな湖水が見えてきた。こちら側が川上であることが分る。それにしても、わずかな貯水量だ。

やがて、小高い山を越えると、左・陽関26㎞の大きな案内板が出た。とうとうやって来た。終着地敦煌はもうすぐだと思う。しかし、反面少し寂しい気もする。もう終わってしまうのかとの気持ちも湧いてくる。のんびり旅ならば、陽関への片道26㎞ならば自転車で行って来るが、今日中に敦煌に着き、両替をしないと手持ちの元がすってんてんである。

西千仏洞の標識も右手に現れる。そして相次いで左手に玉門関60㎞の標識も出た。いずれの地も長くから憧れていた地であるが、後日タクシーで訪れることにした。玉門間の60kmはきつい。敦煌からだと100kmを越える距離で、二日掛りとなる。

行く手に敦煌のオアシスが見て取れた。自然に元気が出てきた。手前の青海油田市なるへんてこな町が意外と大きく、繋がって敦煌の市街へと入っていった。少年たちの自転車が何台も私の後を追尾してくるが、最後のパワーを全開させるとみるみる離れていった。一ヶ月余に亘る走行で、脚力はプロの競輪選手並みに鍛え上げられたと思う。

 

先達の偉大さを改めて知った

当年は7月22日にカシュガルを発ち、34日間、2419㎞の旅を終えた。

今年を振り返ってみると、前半の熱いタクラマカン南沿の砂漠では、強い向い風と砂嵐。人家の疎遠な地帯で水、食料の補給に苦労した。ミーラン以降は、高度が増し凌ぎ易い気温となったが、悪路との戦い。丈夫な車輪のスポークが二度に亘り破損するという過酷な走行であった。スポークは常に数本を所持している。

主目的の、マルコ・ポーロの足跡については、カシュガルからミーランまでは今夏私が走って来た道と同一ルートであるが、ミーランから敦煌までは二つの道がある。

ロプノールを経て万里の長城の西の端に達し、玉門関を経て敦煌に達する道。

アルティンターク山脈の西裾を辿り陽関に至り敦煌に達する道である。

敦煌 西千仏洞 スタインが発見し西欧に紹介

青海省、甘粛省境 当金山峠 3,648m

西から来た旅人は後者の道を選ぶであろう。東から来た旅人は前者を選ぶであろう。13世紀のロプノールの栄華がどの程度であったかが決め手になろうかと思う。

何にも増して、13世紀のマルコポーロ以前から、古の旅人達がこの過酷なタクラマカンを横断したことが信じられない。

「陽関をいずれば故人なるらん」と詠われた西域のタリム盆地の過酷な自然条件を知ることが出来た。

携行したスタイン著を現地で読みながら進んだ。先達の偉大さを改めて知った

 

「東方見聞録」 タングート大州

騎行三十日を費やして上記の砂漠を横断しきると、カーン領内に属するサチュー(沙州・敦煌)市に到着する。この地方はタングート(唐古)と称せられ、住民はほとんどが偶像教徒であるが・・・。多くの寺院、僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されており、人々は多量の犠牲を捧げてこれを信仰し崇拝している。 

 

日本からの大応援団の待つ北京に到達

2010年8月20日

8年間の旅の終着地は北京・元大都土城遺址公園とした。8月20日に到達した。敦煌からは3,416㎞、出発地のトルコ・ライアス港から14,480kmの旅であった。

ゴール地点には、八年間嫌な顔ひとつせず協力してくれた妻の尚美の他、日本から留守本部を八年間お願いしたヒマラヤの友、長野の田村宣紀を団長に、名古屋山岳会の仲間や友人達、勤務先、近隣の方々、三十余名が出迎えてくれ、生涯忘れえぬ思い出となった。ありがとうございました。

 

あとがき

マルコ・ポーロは本当に中国へ来ている

現存する「東方見聞録」の最も古い現本は、パリのフランス国立図書館所蔵のfr1116である。これは中世フランス語で書かれていて、イタリア人のベネディットがイタリア語に訳し、これを元に英語版をアルド・リッチが訳し、日本の愛宕氏や青木氏が日本語に翻訳している。

 

一、fr1116原本の記載が、出獄(1298年)後から5年後の1303年に既に記載されている。他人から聞き歩いていたのでは短期間にこれだけの真実は書けない。地図もない時代である。

二百年後の1492年にコロンブスはマルコの記録を基に黄金の国ジャポンを目指してジェノバを出帆したことは余りにも有名である。そのコロンブスがメモ書きした著書は、現在でもスペイン、マドリードの国立図書館に保管されている。

現在の世でもこれだけの情報を聞き集めようとすれば、数十年は掛かろう。

現今でも行ったことのある人が周囲に居るはずがないし、13世紀のベニスに中国まで旅をした人は皆無であろう。各地の正確な情報は訪れた人しか書けない。

二、トルコ、イラン、アフガン、パミール、西域、河西回廊、黄河沿線、最終地上都の通過ルートについては虚言、誇大表現はない。正確である。各地で検証。

三、ツノカイーン(イラン東部)の美人の産地。自分はマルコが記してあることを忘れて通過していたが、帰国して「見聞禄」を読み返すと奇しくも私の記帳したノートにも、「この地は美人が多い」と、同じことが書いてある。

四、アフガンのバダクシャンと河西回廊の張液の二カ所で一年づつ停滞している。バダクシャンの地名が不明であるが、私の判断だとゼバックである。

五、上都に到着した年号が二種類ある。日本の愛宕松男説が今日では世界の主流で1274年夏。ユール説の1275年説があるが、私は1275年説を採る。

地元中国上都市ではユール説の1275年を採用していた。ライアス港から13167㎞がマルコが歩いた距離である。当時のキャラバンサライは30㎞である。二年掛かると思う。途中のバダクシャンでの「一年たらずの間、病床に伏していた」とある。加えて、パミールは冬季には越へられない。

実際には翌年の春に越えたのではないか。二度目の滞留は中国に入り、河西回廊の張液市である。ここでは丸一年間逗留している。従って、上都到着は1275年6月が正解であろう。ユール説と地元、上都の説が正しいと思う。然らば、世界で認められてきた愛宕説の裏付けが霧散と化してしまう。しかし、マルコ・ポーロは本当に中国へ来ている。

 

1271年12月 ライアス出発

1272年11月 バダクシャン到達(7100㎞/30=236日)

バダクシャン逗留(11月~5月) *一年たらす。

1273年5月  パミール越え出発。カシュガル~敦煌~腸液

1273年11月 張液到達(4500㎞/30=200日)

張液逗留(11月~翌12月) *まる一年。

1274年12月 張液出発 (2500㎞/30=100日)
1275年6月  上都到達 フビライは春分以降大都出立~中都経て上都には6月到達。

北京(大都)は元の創始者チンギス・ハーンが築き。孫のフビライ・ハーンが統治しいた。、マルコ・ポーロ(17才)は父のニコロ・ポーロと叔父のマッフェオ・ポーロとベニスを1271年に出発し上都でフビライ・ハーンに1275年6月に謁見した。

その後、マルコはフビライの寵愛を受け、中国各地を訪れる。

北京を発つとすぐに盧溝橋を通る。盧溝橋を詳しく記している。その盧溝橋は今もそのまま残されている。記述には何の間違いもない。正確な記述である。

その後、成都を経て雲南を経てビルマ(ミャンマー)に達している。

日本についても詳しく記されている。元の襲来、文永の役(1274)、弘安の役(1281)については詳細が正確に記してある。日本の風習の死人の扱いで少し違ったことが記してあるが、マルコは日本に来たことはなく、聞いた話で、多少は間違うであろう。
1290年福建省泉州を帆船で発ち、1295年にベニスに帰還する。

以上。

北京・元大都城垣遺跡公園には名古屋山岳会員9名をはじめとする29名が日本から駆け付け、待ち構えてくれた。