マナスル登頂を終えて
影山 淳
1976年秋、4ヶ月あまりの登山を終え、11月23日に帰国しました。
当計画に対し、OB諸氏をはじめ、現役会員、愛知岳連の方々から多大なご支援をいただき、心から御礼申し上げます。以下に簡単な雑感を記してみました。
当会より、木村博と私が参加しました。幸いにも私がマナスル登頂を果たすことができ、私自身、当会にとっても大いにプラスになるものと思っています。
より高く、より困難を目指すのがアルピニズムの根源である。私自身も、より未知な、美しい山を登ることを願望していますが、マナスルはすでに6回も登頂を許している山です。しかし従来の登山の目的ばかりが登山ではないということを今回体験しましたし、他の人にもわかってほしい。
我々の隊の目標は、日本、イランの国際親善にあった。第一登を終え、第二登をやるやらないが問題となったが、結果は第一登だけに終わった。日本側は数名の隊員を頂上に出せたが、イラン側には登れるメンバーがいなかったからです。
親善を目的にしている隊で、日本側だけで登るのは、イラン側の反感を買う。
登頂を終え、私はイランに招かれ、テヘランに1週間滞在したが、連日パーティで明け暮れ、マスコミは大騒ぎしていた。
目抜き通りには日本、イラン、ネパールの国旗がはためき、少なからずイラン人が日本に興味を持ったろうし、良いイメージを与えたことは間違いないだろう。井川駐イ大使も手放しの喜びようであったし、在イランの日本人への朗報であった。これが親善であろう。
イラン人と日本人は全てにおいて極端な開きが見られた。おもしろおかしく書くわけではないが二、三あげてみた。
登頂前日に私とアサディ、パサンの3名はC4を出て、C5(7,650m)を目指していた。途中アサディが強風に羽毛服をさらわれた。ザックから出して、ちょっと置いた隙だった。そして翌日も羽毛ミトンを風にさらわれてしまった。
登頂後BCに帰り、「ミスが命取りになるぞ」と言ったら、アサディ曰く、「私のミスではない。風が強かったからだ」。日本隊員は唖然としてしまった。しかし彼は真剣であり、ジョークを発したわけではない。「神のおぼし召しである」。
登頂前のC4でのこと。フォローザン隊員がナツメヤシを出して、これを登頂時の食糧にしろと言った。アッラーの神がこの地球上に送った、この世で最初の食べ物であるからと。C5でアサディのザックからは、このナツメヤシが出てきたが、私はチョコレート、ビスッケトを頬うばっていた。
こうしたイラン隊員との3ヶ月間の同居は大変であったが、全ては終わった。
[月報33号(1976.11.30)より]