1997年 JAC東海支部 K2 西壁 8611m   西壁より初登頂

中川 邦仁

 1993年7月、有富と私は名古屋山岳会からJAC東海支部のクラウン峰(7295m)登山隊に参加、隊長以下14名のメンバーと一緒に頂上に立った。3年後の1996年3月、今回の計画に参加を打診され、熱意に押し切られる格好で承諾した。

 1997年3月出発の10日前に徳島隊長が穂高岳涸沢にて雪崩にて死亡するという信じられない出来事が起こった。田辺氏がなんとか隊長を引き継ぎ計画の実施がきまった。

時期:1997年5月16日~8月30日
メンバー:有冨保之、中川邦仁、×JAC東海支部、登山隊長 徳島和夫、登攀隊長 田辺治、他7名

5月16日:成田~ラワルピンディー
5月26日:スカルドウ(2300m)着
6月3日:スカルドウ~トンガル ジープ22台にて夕方トンガル着
6月4日:トンガル発キャラバン開始
6月10日:K2,BC(5150m)着
6月14日:ABC、サボイア氷河上(5500m)
6月17日:ブロードピークABC静岡隊雪崩遭難応援
6月27日:C2(6400m)建設
7月3日:C3(7000m)建設
7月15日:C4(7500m)建設
7月16日:チャンスは突然やってきた。C5までのルート工作を終えたシェルパ2人が体調不良によりアタックを辞退したため、C3の私に1次に加わって欲しいと、夜の交信でC4の隊長から告げられた。

7月18日:C5(8000m)建設 前日C4まで移動、酸素を吸えるようになったので熟睡。3時間そこそこでC5まで到着。テントを張り、鈴木さんとルート工作に行く。初めて8,000mを超えて未知の壁にロープを伸ばして行く。今までに経験したことのない興奮と緊張は大変な体験となった。西壁側に第一雪田終了点の10ピッチ目までザイルを張り明日の為に酸素をデポする。

7月19日:アタック、今日も天気は良い。2時起床、4時半、田辺、鈴木、中川の3人で出発した。7時半フィックスの最終点に到着。田辺さんがトップで第二雪田にロープを張っていく。無駄のない手際の良さに驚かされる。10ピッチ伸ばしたところで鈴木さんと交代。駆け登っていくパワーには呆れるばかりだった。

第三雪田を登り切ると傾斜が落ちて雪がなくなりガラ場になった。北稜上部を左に回り込むとバルトロ氷河の巨大なうねりがひろがっていた。頂上へは緩やかな雪の斜面が続いており最後の力を振り絞ってラッセルをした。斜面がK2とは思えないほどやさしくなった。14時30分3人で肩を組んで頂上に立った。

田辺隊長と中川(右)、頂上にて

 

風は無く暖かったが、次第にガスが上がってきてた。下降は雪の中になった。すぐ酸素ボンベが空になり、少し歩いては立ち止まって倒れこみ、急な斜面では何度も滑り落ちて固定ロープにぶら下がった。20時、C5に戻り、長く感動的な1日が終わった。

7月20日:C2に下る。
7月28日:滝根副隊長以下4名、ギャルブー以下4名登頂。
8月7日:BC撤収、ラワルピンディーへ
15日、到着
8月20日:帰国する本隊と分れ、鈴木隊員とギルギットからフンザへ。話で聞いた通りの桃源郷のような村で3日間を過ごした。

8月30日:帰国

K2頂上部。西稜から西壁に新ルートからの登頂

[JAC東海支部公式報告書「K2からローツェへ」、会報100号(2009年4月より]