― 追 悼 ――   頼れるのは自分だけ

            群馬岳連 山田 昇

 一番こたえたのは、心を許した友、斎藤安平の遭難死だった。87年冬のアンナプルナⅠ(8,091㍍)南壁。登頂を果たした後、私と斎藤ら4人の隊員は下山にかかった。ところが、7,900㍍ぐらいまで下った氷壁で一人がスリップ。目の前を落ちて行った。

「これ以上事故は起こせない。安全に下ろうぜ」。私は斎藤に呼びかけた。いつになく斎藤が疲労しているのはわかっていたが、アイツならどんなに調子が悪くても大丈夫のはずだ、と私は思い、それまで声もかけていなかった。最終キャンプまで20㍍のトラバースを残すだけ。斎藤は1ピッチ離れた後にいた。

 暗闇の中、私は一足先にアタックキャンプにたどりつき、斎藤を待ったがなかなか帰って来ない。三枝照雄に見に行ってもらったが、声をかけて斎藤から返って来たのは、「オレ、のどが渇いたよ」という言葉。次の瞬間、三枝が見たのは、雪壁の中に顔を出している岩に激しくアイゼンがぶつかって、飛び散った火花だった。斎藤も落ちたのだ。

 アルピニズムが「より高き、より困難を求める行為」である以上、いつも死はついてまわる。だが、その行為の中に自分の輝く時を見つけた者は、のめり込んでゆく。そして、そんな時間を共有した仲間こそ、最高、最良の友ではないのだろうか。

 斎藤とは6回のヒマラヤ登山を一緒にし、82年のダウラギリ、85年のマナスルと、二つの8000メートル峰の頂を共に踏んだ。アンナプルナⅠは三つ目だった。

 いつの遠征でも、私が荷物の整理を始めれば、斎藤は斎藤で、シェルパと荷上げの打ち合わせをする。そんな調子だった。二人で話し合わなくても、自分が今何をやったらいいかが、本当にわかっているやつだった。 (中略)

 8000メートル峰のアタックでは普通、仲間とザイルを結び合うことはしない。酸素が平地の3分の1という極限の世界。ザイルを結んでいても、スリップした場合、仲間が止めてくれるよりも、道連れにしてしまう確率の方がはるかに高いからだ。だから、頼れるのは自分の力だけ。たとえ仲間が疲れ切って動けなくなっても、背負って下ることなんか出来はしない。また、もしそれをやったら、本人までが動けなくなって共倒れになるのは目に見えている。

 他人の力は当てに出来ないし、他人に力を貸すことも出来ない。非情なようだが、自分は登れるのか、これ以上進んでも大丈夫か、全て判断は自分で下さなければならない。 ニュージーランドのある登山家は、こう述べている。「登山とは生き延びることを大前提に、持てる力を最大に生かして判断するゲームである。だから、危険と、それによって得るものとのバランスをうまく取ってゆくことが成功の条件になる」と。

(山田昇<最後の手記>「世界の屋根が呼んでいた」1989年5月号より)

山田氏は1989年2月、植村直己氏と同様、冬のマッキンリーで遭難行方不明に。