6日:第一次アタック、山田、高橋、小池の登頂隊はC4を後にする。落ちない傾斜とラッセルに苦しめられ、7600mに達したころには雪が降り出し、視界も悪くなり全く見えなくなるまでそう時間はかからなかった。風も強くなったのでビバーク態勢に入り、急な斜面を削り3人が座れるだけの場所を確保、眠くてたまらなかった高橋はすぐに眠りだしてしまった。12時C3の隊長と交信「危険なので至急C4まで下山」との事。頂上まで高度差150m、ここで降りたらもう頂上には・・。しかしK2経験者の宇津の説得により渋々C4に帰ることになった。自分達の置かれている危険な状況が全く分かっていなかった。結果C4から一気に頂上へ立つのは困難なことがはっきりした。天候は午前中しか持たない、ルートはナイフエッジが頂上まで続いていることから、C5予定地の選択とフィックス工作に全力を尽くし、アタックは明後日小川隊長、小池の2名で一次のみにとどめることになった。                      (小池)

C4上部の雪壁

 

7日:C57600m)建設、ここは雪稜の片側を削り取っただけで、辛うじて簡易テントが張れるだけのスペースしかない。両側ともスパッと切れ落ちている。小川隊長、小池が入り1本の酸素を分け合い明日のアタックに備える。宇津、高橋は昨21時C3まで、山田、天野はC5~C3へ。登頂隊員だったアンツエリンは体調不良にてペンパと共にC2迄下った。

8日:登頂、昨夜は激しく雪が降っていたが今朝は快晴だ。6時出発、酸素ボンベのおかげで気分はいい。出発したがすぐに急な登りでツクラボン氷河側を行く。足元から3000m余り切れ落ちている。スリップすればザイルを結んでいても止めることは難しい。雪稜を詰め、頂上間近で巨大なキノコ雪の下をトラバースして、脆い岩混じりの雪壁に出た。ハーケンを2本打ちやっと抜け出る。頂上へのなだらかな登りとなり、北面からの稜線と交わると頂上だった。9時30分。「やっと終わった。もう帰るだけだ」各キャンプと交信。1時間後下り始めると怪しい天気になってきた。C4に着くころには、すっかりガスに囲まれていたが、C4を撤収、山田,高橋、宇津にサポートされC3まで下った。     (小川義夫)

万歳!会旗もはためく(小川義)

 

9日:撤収開始。隊長以下5名は、C3~C2へ、小川正、以下4名C2~BCへ、永井他ポーター達もBCへ、BCには小牧氏の手配した最奥部落、ボガラのローカルポーターが上がってきており、驚く。

10日:DⅠ隊も登頂、本当によかった。上部の5人はBCへ、他は全員TBCに降りる。小川(正)はDⅠ隊BCを訪ね、登頂の報告と同隊の祝福を。

14日:TBC~ドバン、帰路キャラバン開始。午後の雨の中ドバン着。
15日:ドバン~ボガラ、暑いキャラバン、畑の中に幕営。
16日:ボガラ~ムリ、往路は枯れ野原一面がすっかり緑に。
17日:ムリ~ダラパニ、18日:ダラパニ~ダルバン~バビッツオーレ
19日:バビッツオーレ~タトパニ~ベニ、タトパニ温泉で疲れを癒す

20日:ベニ~マーベル部落、往路から離れカリガンダキを逆行ガーラに出、ダウラギリ街道にキャラバンルートを採る。

21日:マーベル部落~ゴラパニ、ジョムソン街道にでて、ゴラパニ手前の峠でもの凄い霰スコールに見舞われる。峠のロッジ泊まり

22日:ゴラパニ~ウルリレ~ティルケドンガ、全員5時起きPOON HILLに登るが、5月特有のモヤの為アンナⅠ峰もオボロゲしか見えず。左奥にDⅠ峰、ニルギリと並ぶ、深い樹林帯を辿り、ウルリレを経て、ティルケドンガ泊。

23日:ティルケドンガ~ノーダラ~バッティ、途中モディーコーラを分け急登するとルムリ。更に2時間でノーダラについた。ノーダラで雨に降られ、バッティ泊まり。今日で往路に合流した。

24日:バッティ~ポカラ、昨日先行した高橋、小池もスウイケットのバッティで合流し、ポカラまで最後のキャラバンである。3時ごろヒマラヤンホテルに集合、ポーターに賃金を払う。

25日:ポカラ~カトマンズ、5時間遅れの飛行機に乗り込むもアッと言う間にカトマンズ着。山田と高所ポーターは装備とともに陸路でカトマンズへ。

5月28日~6月6日、各自、離ネパール

キャラバンルート

 

登頂ルート

[名古屋山岳会ダウラギリⅡ 1978報告書(1999年12月)より]