1976年   マナスル 8156m
ポストモンスーン初登頂 

木村 博/影山 淳

 影山がポストモンスーンのマナスル初登頂を果たした時期、鶴がヒマラヤの山なみを盛んに越えていた。主力スポンサーの信濃毎日新聞からは「イランとの友好を支援する」といわれた友好最重視の登山隊の公式記録は「友情はマナスルを越えて」として出版された。友好を深めることができたこの遠征は、実質的には、イラン山協、GDM,名古屋山岳会、3者の友好が実を結んだ遠征であった。

期間:7月25日~11月23日
メンバー:木村博、影山淳、×日本・イラン合同マナスル遠征隊(隊長 渡辺公平(日本山岳協会会長)、登攀隊長 田村宣紀、風間毅(以上GDM)、曽我謹昭(名古屋山の会)、清水澄、島田良(以上長山協)、清水公男(ドクター)、飯島正直(報道)、イラン隊員9名)

 1974年、登る気、満々の加藤幸彦はダウラギリⅠ峰8,167mの北西稜、ペアールートからの初登頂を照準に定め、木村博と計画書を作った。
 この計画でイラン側と合意、影山はペアールートの偵察までしたが、春はイタリー隊と競合、南稜の許可が出るが、隊の力量などから秋のマナスルに変更される。「いまさらマナスルのノーマルか」と、加藤幸は、登る側から登らせる側で全面協力してくれることになった。
 イランは、パーレビ国王の裁可で、国家行事に。これに対する日本も、日本山岳協会初主催の遠征隊とし、日本側隊長は日山協会長の渡辺公平さんに。
 装備は長野、食糧は愛知が担当。ひとり食糧担当となった影山は苦闘する。愛知で調達した食糧7.9トン。この梱包には、愛知岳連の大勢の皆さんの協力で、5月9日、1日で終了することができた。感謝。
 神戸から船で送られた隊荷は58個、16トン。急遽輸送担当になった影山は7月25日出国し、8月2日にカトマンズまで隊荷を届けた。8月5日、本隊出発。

 8月16日、隊員、隊荷共にカトマンズを発ち、トリスリ・バザールへ集結。18日、雨の降る中、隊員18名、リエゾン、シェルパ、ポーターらで計593名もの大キャラバンが始まる。増水した川の渡渉に苦労した。丸木橋からポーターが落ち、行方不明になるなどのキャラバンになった。
 9月4日、サマ部落からBCまでは全ポーターを部落の要求で入れ替えた。今までのポーターの支払いで1日足止めになり、翌5日、BCへ荷上げをした。
 9月6日、BC建設が始まり、食堂、娯楽室兼会議室が完成した。奇しくもアサディ隊員と木村の誕生日で、早速ささやかな誕生パーティ。マナスルの登頂ルートは1956年、日本の槇隊が初登頂し、その後、元会員だった中世古直子さんが8000m峰で世界初の女性登頂者となった、ノーマルルートである。いずれもプレモンスーン。
しかし、結果としてプレと今回のポストモンスーンの違い、初見参のイランとの合同隊ではギリギリの成功であった。

 10月11日、モンスーンが明け、ソデグロツルが盛んにヒマラヤの山脈を越える日、登頂隊の影山たち3名はC5(7,650m)に入る。
 10月12日、影山たちは、5時半、強風で息も出来ないほどの外に出て歩き出すが、すぐ酸素マスクが凍りC5に引き返す。そして今日の登頂を断念しようとするが、「このアタックが最初で最後である。全力を注いで再度アタックせよ!」という田村登攀隊長の指示で「殺す気か」とつぶやきながら8:30再度出発した。
 14時45分であった。これが最後の難関であり、これを突破しなければ頂上へは達し得ないと決断し、やせ尾根のはじまる基部に影山はボンベを捨てた。とてもマスクをつけていては乗り越せない雪峰がつづいていたためであった。腰までもぐり、ゆっくりと進む。最後の力をふりしぼってラッセル。眼前に現れたのは、今まで見慣れた写真とは異なり、雪にそのほとんどが包まれているが、まぎれもない頂上であった。登頂は、かねてからの打ち合わせで、ネパール(パサン)、イラン(アサディ)、日本(影山)の順で登頂する。そのとき、二番目のアサディがスーと滑落しはじめ、前後の二人が必死に止める場面もあった。
 C5出発以来、一度もトランシーバーを開局していないことに気づき、「C2、C2、こちらアタック隊、現在頂上にいます」と連絡した。ときに15時43分。

頂上に立つ影山

 翌朝、ハクビッツ総隊長から、成功に対する感謝と撤収の指令が出た。本番で活躍できなかった木村は、少しモヤモヤしていたが、BCを撤収する間、ラルキャ・ラ(峠)5,000mへのミニ・トレッキングに喜んで参加した。ラルキャ・ラはタルチョのはためく無人の雪の峠だった。BCからの帰路は、すっかり水の引いたブリ・ガンダキで、往路苦闘したことが嘘のような快適な河原沿いのルートだ。カエレニで徒歩のキャラバンは終わる。
 カトマンズで他の帰国隊員を見送り、清水澄と木村は、デポジットマネー回収のため、インド国境の町ビルガンジーに行き、無事回収してカトマンズに戻る。影山は、報道の飯島と登頂報告のためイランに向かい、大歓迎を受けた。

さよならマナスル

キャラバン・ルート図 《 公式報告書から 》