ペルーアンデスに想いをよせて
加藤 幸彦
夢ふたたび
2007年の夏、私は翌年の1月に後期高齢者になる機会をとらえて何か自分自身を試してみたいと考えていたが、やはり山以外には思いつかなかった。
思い出に残る山ばかりが脳裏にうかぶが、とりわけ1968年の夏、私自信が登頂する山と登攀ルートを選定し、遠征隊を組織して挑んだ南米はペル-アンデスのサルカンタイ峰を初めとする山々への挑戦は、その厳しさと困難さ故にひとときも忘れたことがなかった・・・・・・・・これしかないと思った。
70才をすぎてからは、基礎体力と筋肉の劣化がはげしく、これを気力や根性や精神力でリカバリーすることも限界があるように思われた。
幸い、私が住むケローナ近郊の冬山は日本の北アルプスの平均気温より気温が低く、マイナス 10℃以下の雪山を、オーストリーから移民した山仲間と二人で週3回のペースでトレーニングを継続して体力の充実につとめ出発への準備をととのえた。
ペルー・アンデス登山計画の概要
期間は6月20日から8月6日までの48日間とし、ケローナからトロント経由でペルーの主都リマまでノン・ストップ・フライトのエアー・カナダ便を利用したので、アメリカ経由と比べれば利便性にすぐれていた。
ペルーアンデスの山々に登るには、大別して北部のワラス市を起点とし最高峰のワスカラン峰(6,768m)を盟主とするコルディエラ・ブランカ山群と世界遺産のマチュピチュで知られるクスコ市を起点とする南部のコルディラ・ビルカバンバ山群があり、その盟主がサルカンタイ峰(6,271m)であった。
この2つの異なった都市を直接つなぐアクセスはなく、一旦海岸線にある主都のリマ経由となりワラス-リマ間は大型バス(8時間)、リマ~クスコ間は航空機(1時間)となり2日間が必要となる。
登頂する3つの山はブランカ山群の3つの谷の奥にある、イシンカ峰(5,530m)、ウルス峰(5,493m)、ピスコ峰(5,752m)とアルパマヨ峰(5,976m)の4つときめた。それと、出来れば40年前に初登頂したビルカバンバ山群のサルカンタイ峰南陵を訪問することであった。
そして、出来ればワラスに近いプリ・インカ文明のチャビン遺跡やマチュピチュ周辺の遺跡も出来るだけ見学することと、40年前に現地で私達の遠征隊に協力していただいた日本人移住者や原住民の方々に再会し、謝意を伝えることも重要なテーマとして出発することにした。
ペルーへの旅立ち
最初の訪問地であるワラスまでの距離は450kmだが、3000m近い高所を2階建大型バスで行くために8時間以上を費やした。太平洋を眼下に見下ろす海岸線を北上したあと、アンデス山脈に向かって3000mの標高差を登り詰め、素晴らしい景色にそれだけの価値があった。
夕刻、バスはワラスの町に到着した。町そのものが40年前とは比べものにならないくらい近代化、都市化が進んでいたのには驚かされた。
バス停の先には若かった頃の面影がのこる日本人の高齢者、谷川さんの顔があった。二人とも何か言っているようであるが、言葉にはなっていなかったが涙が出るくらい嬉しかった。40年ぶりに外国で再会する78才と75才の男同士であり、これが無言の挨拶となった。谷川さんは中央市場で玩具の小売業を経営されているが、お店は現地人の使用人にまかせ、日本から訪れる日本人登山者やトレッカーの良き相談相手として今だに活躍されており頭が下がる思いがした。
ワラスの町
ワラスは町の標高が3,091mあり、低酸素に慣れるのに数日かかるようである。特に5月末から9月中旬ころまでは好天が続き、町のなかのいたるところから5,000-6,000m級の氷河に囲まれたアンデスの山々の素晴らしい景観が楽しめる。また町の郊外には湯量が豊富な温泉が2つあり楽しみの一つになっている。
我々がこの町を訪れた1968年の2年後に大地震がワラス周辺を襲い、町は壊滅的に破壊された。40年を経過した今でも道路と家屋の建設は積極的に行われている。
インターネット・カフェー、大手銀行、ホテル、レストランやアンデスのトレッキングや登山のための旅行代理店も多く、スペイン系住民と原住民のインディオに海外からの旅行者が混然一体となって町は活況をていしていた。
電話ボックスがやたらと多く、極めて安価であり、カナダへの国際電話など5~6分かけても1ドル以下には驚かされた。
アンデス登山とガイド、ポーター
40年前に来たときと現在では完全に様変わりしていた。海外からの未熟な登山者やトレッカーが増え、それに対応するためヨーロッパ・アルプスのような登山のガイド・システムが安全確保のためペルーにも導入され定着していた。
ペルー国内に国際ガイドは日当120ドルで、ポーターは30ドルとかなりの格差がある。登山客は費用を節約するために、ガイドを雇わず安価なポ-ターを利用しようと思っても、ポーターは頂上に行けない仕組みができており、問題もあるようだ。
幸い私が国際山岳ガイドのライセンスを持っていたため、承認の書類を国立公園事務局に提出して認証されたので、コストのセービングが可能となった。
イシンカ峰(5,530m) とウルス峰(5,493m)の登頂
私が国際級ガイドのライセンスを持っているので、ポーターのエミリアーノは頂上まで同行できると喜んで参加してくれた。他にクックのフェデリゴと馬方1人に私が乗る馬1頭に荷物を運ぶロバ3頭でキャラバンを開始した。長いヒマラヤのキャラバンと違い、アンデスでは長くても4~5日だが今回は2日と短く、途中のチェック・ポストでガイド証明とパスポートの提示を求められたがなんなく通過して、標高4,390mのイシンカ・ベースキャンプに2日目の昼に到着した。
このイシンカ谷はワラスから近いのと、適度な高度のため訪れる登山者が多いが、私のような高齢者は見当たらなかった。ここからは氷河と雪の壁で守られたトクヤラフ峰が真正面から仰ぎ見ることができる絶好のキャンプサイトであった。
登頂するには前進キャンプが必要で3時間半の楽しいハイクでイシンカと6,000m峰ランラパルカを見上げる素晴らしい場所に移動した。
7月1日早朝4時にテントを 出発。イシンカの頂までの高度差は650mであるが、長大な氷河を登るので結構時間を費やした。頂上直下では下降のことを考え、40mザイル2本を固定して頂上に出た。キャンプから6時間の氷河の登攀であった。快晴・無風の頂上で仲間と共にこの幸運を喜んだ。
頂上からは一気に前進キャンプに下り、キャンプを撤収して夕方4時過ぎにベース・キャンプに戻った。
7月2日は一日休養して、翌日は対岸に聳えるウルス(5,493m)の登頂はベース・キャンプから一気に登頂するので高度差が1,100m近くあり、午前2時半にヘッドランプを付けて出発した。気温が低くベース・キャンプから3時間半くらいは急峻なガラ場と岩場に雪まじりのルートが続き、苦労して登りつづけて氷河の斜面にでた所で日の出を迎えた。眼下にテント場が望見され鳥になりたい気持ちになった。
ここからは硬い急な雪と氷のミックスした斜面を登って頂上に立った。頂上は狭く馬乗りになって周りの景観を楽しんだあと、氷河を一気にかけおりて13時にベース・キャンプに戻りイシンカ谷での登山活動を終了し、翌7月4日にはワラスに戻った。
ヤンガヌコ谷からピスコ峰(5,752m)の登頂
ピスコは40年前、ワスカラン(6,663m)に登った後でもう一つ登ろうと選んだのがこのピスコであった。事前の調査もなく、ぶっつけ本番で挑んだのが頂上から真下に切れ落ちた未登のピスコ中央稜であった。
夕刻6時頃には中央稜の取り付きに着き、そこで見つけた洞窟に潜り込んでツエルトをかぶり日の出を待った。十分な登攀用具もないのに、ただ仲間を信じて挑戦し、1日で初登攀に成功したことは自分でも信じられない快挙であったが・・・40年前の記憶はだいぶ薄れていた。
今回は何としても、自分が40年前に中央稜のどこをどう登ったか、登って確認したかったが、この年では不可能なので一般ルートから挑むことにした。
7月6日にワラスからユンガイに向けトヨタのバンでハイウエーを北上し、1時間半のドライブでユンガイの町に入った。
ユンガイの町は1970年の大地震の時に町が氷河の崩壊で壊滅的な山津波により被害を受け、死者が一万人以上出たようで、丘の上には大きなキリストのモニュメントが町を見下ろしていた。
ここでハイウエーを下りてヤンガヌコ谷に入り、国立公園の検問をうけて、この付近一番の景勝地ヤンガヌコ湖の最上部でバンを降り、待っていた馬方とロバに合流して荷物を積んで急で長い坂道を4時間登ってピスコのベースキャンプ(標高:4,600m)に着いて設営を完了した。背後にはペルーアンデス最高峰のワスカランが望まれた。
翌朝テントを出て急な坂道を登ると氷河堆積の上部に出たら景色が一変して、目指すピスコとワンドイの3山が目の中に飛び込んできた。真正面には40年前に初登攀したピスコの中央稜があった。こんなに、瞬間的に識別出来るとは夢にも思ってもいなかった。たとえ40年前とは言え、こんな厳しいルートをよくも登ったなと我ながら感心して標高4,900mのモレーンキャンプに入って登頂への準備はととのった。
翌、7月8日の早朝3時にヘッドライトをつけ、ピスコとワンドイの主稜線の鞍部を目がけて、岩と堆積の中に付けられたトレースを登り氷河末端に着き、アイゼン、ハーネス、ピッケルを付けて更に1時間半登って国境稜線の鞍部に出た。
ここから頂上までの高度差は500m以上あるが距離は長く、雪が若干柔らかく登攀スピードが落ちた。天候も悪化してガスで先行したパーティーも見えなくなった。先は長い。仲間の顔が無言で私の顔を覗き込んでいた、「どうしますか?登るんですか?引き返しますか?」と無言で問うているようであった」。
今回の登山は私の配下の者を連れて隊長で来ているわけではなく、便宜上ガイドの免許を持っていただけで隊長でない私には指揮権は存在しないのである。私には時間はかかるが必ず登れると言う自信があった。・・・大丈夫だ。
みなが頑張れば必ず登頂できる。そういった1時間後の9時45分に私達はガスで何も見えないピスコの頂きに立っていた。
モレーンキャンプに着いてお茶を飲んでいると、ペルー人の若者が訪ねてきて、「ひょっとしたら彼方が昔ピスコのディレティシマ(直登ルート)を登った日本人か」と尋ねてきた。「そうだ」と答えると、私は2年前に登りましたと言って握手を求められ、双方ともに感激した。
なぜ、私とわかったのかと聞いたら、ワラスの登山用品店でピスコの中央稜を昔登ったと言う日本人が訪ねてきて、その後だれか登った者がいるか調べにきたと聞いたので、ひょっとしたらと思い聞きましたと言うことであった。
自分が初登攀したルートが時代は変わっても登られることは嬉しいことであった。その後、ワラスに帰り3日間の休養をしていたら、山荘の主人が日本から来た4名の男女を4日間のトレッキング・ツアーにサンタクルス谷周遊に案内すると言う。ペルーアンデスの中でもコースの途中で4,700m近い峠を2つ越える長大なコースで一度は行って見たいと思っていたので参加することにした。
このコースは距離が長く標高の高いところを登るので、4名は2頭の馬を二人で交互に乗りトレッキングをすることにしていた。そのため私は1人歩くことになったが、毎朝1人だけ1時間早く出発することで遅れを調整することにして出発した。
7月14日から17日までの4日間のサンタクルス谷からPunta Union峠からヤンガヌコ峠へのゴールデン・コースはペルーの最高峰ワスカランを初めとして、キタラフ、
アルパマヨ、チャクララフ、アルテソンラフ、チョピカルキなどが日替わりメニューのように指呼の間に接することが出来た歓びは忘れられない。
アルプスのマッターホルン、ヒマラヤのアマダムラム、アンデスのアルパマヨとまで言われる秀峰アルパマヨはぜひとも登頂したいと思い、主目標としてアンデスに入ったが、40年の時代の差は、登攀用具と技術がないと安全な登攀ができないことを確認し、ワラスを起点としたコルディエラ・ブランカでの活動を終わることにした。
世界遺産マチュピチュの起点クスコへ
今、日本で世界遺産の人気度が高いのが、ペルーのインカ遺跡マチュピチュである。当時、マチュピチュを訪れる観光客は少なく、それが世界遺産に指定されてからは海外からの観光客でごった返し、地元の人サンタクルス谷からのアルパマヨ峰はこのような現状が5年も続けばインカトレールなどは、エベレスト街道のように荒廃し破壊がはじまるだろうと危惧している。
今年の7月25日、コルディエラ・ブランカ山群での登山を終えて、主都のリマを経由してクスコに入ったが、40年前は日本製の双発新鋭機のYS-11でクスコに入った。今はボーイング737-200の双発ジェット機で今昔の感があった。
思い出のサルカンタイ峰を訪問
40年前に南陵からの初登頂に成功したサルカンタイは、コルディエラ・ビルカバンバ山群の最高峰でクスコからほど近い所にあり、南陵からの初登頂に関心が持たれていた。しかし登攀をはじめた10日後の7月5日から激しいブリザードが険しい南陵のテントを48時間襲いかかった。
あとで分かったことではあるが、このときクスコでも半世紀ぶりのブリザードが襲い、異常降雪をみたという。このような状況下で「サルカンタイを登攀中の日本からの登山隊が遭難して消息を絶った模様・・・」とペルーの新聞記者が世界にむけて発信したため、日本では大混乱になり日本大使館も困惑した様子であったようである。
それとは知らず我々は、厳しい試練を経験と技術で乗り越えてサルカンタイ南陵からの初登頂に1968年7月17日に成功した。
私は自分の登山人生で一番思出が残るアンデスのサルカンタイを、75才になった今もう一度見ておきたいと思いクスコを訪れた。
それと、もう一つ重要なことは、40年前に登山隊を率いて来た時に、親身になって私達のお世話を頂いた大村さんに再会してお礼を述べたいと思っていた。
リマの日本大使館では不明とのことで、クスコで数少ない日系関係者に問い合わせて既に亡くなっていることが分かり極めて残念であった。
サルカンタイ行きは4日間の予定で、かって私達がベース・キャンプを建設したパンパ(高所にある草原状の台地)が日本人の登頂を記念して原住民が命名した『PampaJaponesa』に行ったことのあるポーターを見つけて同行させた。
7月27日早朝3時半にポーターがホテルに迎えに来たのでバスの停留場にタクシーで急いだ。ポーターは弟を連れてきてテント、炊事道具、プロパンボンベ、食料や個人装備など大量の荷物もバスの天井に積むと言う。私はてっきりバンをチャーターしていくものだと思っていた。バス停は人の山で、ほとんどがインディオで皆大量の荷物をもっており、全員乗れるか不安になる。
そこに、やっと現れたのが日本で言えば廃車同然のおんぼろバス。ここまでくると腹もすわる。勝手にしやがれと、われ先にバスに突入してシートを確保して座り込む。
超満員のバスの中にも朝飯を売りに来るから驚いている間に天井一杯に荷物を山積みし、バスは轟音をたてて暗闇の中を出発した。
目指すモエパタまでの道はクスコとリマを結ぶ国道である。40年前は未舗装の道路であったが今は舗装されている。オンボロバスはイライラするほどゆっくり走る。
最高所の3,900mまで登ったあと、目的地モエパタまで一気に1,100mを下り、3時間のバスの旅を終わった。
モエパタの部落も一変していて町になっていた。前回きたときは馬しか通れない道を隊長の私は馬に乗って入山したが、今はひどい道だか小型のバンならキャンプ場まで入ると言うので安心する。
ここでも80万キロは走ったと思われるトヨタのバンに荷物を山ほど積み、人間10人乗せて出発した。動くことが信じられない酷い車だが、とにかく動くだけで走らない。走らないときは客が降りて押せばとにかく走りだす。これを繰り返して4時間かかって今日のキャンプ地ソライ・パンパ(3,650m)に着いたが、客が運賃を払ったかどうかは定かでない。全員がゲーム感覚でドライブを楽しんでいた不思議な国である。
テント場についてしばらくすると、50才くらいのペルー人のガイドが訪ねてきた。そして私に「クスコで聞いたが、貴方は40年前にサルカンタイの南稜を初登攀したときの隊長か」と聞いたので驚きを隠しきれなかった。これで2度目である。
話を聞いていると、40年前、われわれ登山隊は20頭くらいの馬と馬方を調達するため、村のボスのモラレス兄弟に協力を依頼して、入山、下山を請け負わせたのである。このガイドはその兄の息子で親から日本人の話を聞いて覚えていたようである。いまの父は高齢となり山を下りて町で生活しているとのことであった。
明日のキャンプ地『パンパ・ハポネサ』はわれわれの登頂を称えモラレス兄弟が命名したようである。 父親のご健勝を伝えるよう依頼して別れを告げた。
翌、7月28日、キャンプ地ソライ・パンパを馬方と馬3頭を雇い出発した。目指すサルカンタイは遥か彼方に見え隠れしていた。私はスピードを上げるために乗馬して皆と一緒に行動した。馬に乗れば歩く早さの倍は稼げるので楽であるが、ジグザグの急斜面では落馬しないよう緊張の連続であった。出発して4時間後の12時には懐かしい
パンパ・ハポネサに到着した。真正面にはサルカンタイの頂上から南稜が険しいナイフリッジとなってベース・キャンプの方に落ちていた。昔と同じ景観で夢を見ているようであった。この南稜を登るために21日間の苦闘を強いられたことが昨日の出来事のように頭の中を駆け巡った。苦楽を共にした仲間のうち、私を支えてくれた加藤英生と隊員の牧野はすでにこの世にいない。亡くなった二人にもこの景観を見せてやりたいと思った。
私は単身ガレ場を登り南稜の取り付き点に大きなケルンを作り加藤英生と牧野の冥福を祈った。一緒に来れたらよかったのにと思うと、涙がとぎれなく流れ落ちた。
氷河が地球温暖化でこの40年間に恐ろしく後退しているのにサルカンタイの取り付き点はほとんど後退していなかった。南半球のせいか?何故か不思議に思えた。
朝起きて外に出てみると新雪が10センチも降り積もり、パンパはもとよりすべて真っ白の世界であった。この時期に新雪がこれだけ降るのは私を歓迎してくれるのか、ポーターも馬方も喜びを隠しきれず、おめでとうと言って握手を求めてきた。
二人がまたとないチャンスだから対岸の大きなモレーン台地まで登って、サルカンタイ最後の写真を撮ってきたらと私を促した。私は一人うなずきモレーン台地を登って行った。
2008年8月