海外登山80周年会史から

1985年 マナスル冬季第2登

1985年 2人だけの冬のマナスル 8156m 冬季第2登

                         斎藤 安平

隊   名:カモシカ同人・冬季マナスル登山隊

メンバー:斎藤安平、×隊長・山田昇、サーダー:アン・パサン、コック:パサン、メールランナー:ナワン・ギルミ、連絡管:ダナ・B・シン・グルン

行動概要

11月25日ー12月4日:ゴルカ~サマ部落 シェルパ3名&ポータ5名と隊荷、カトマンズ発、ゴルカよりキャラバン、サマ部落着。

12月2日:カトマンズ~サマ部落、山田、斎藤、連絡管の3名ヘリコプターにてサマ部落着。
12月5日:BC(4800m)設営、山田、斎藤、アン・パサン、パサンの4名で設営
12月6日ー9日、BCよりアタック、強風の為7200m地点からBCへ
12月11日:BC~第一キャンプ地(6150m)
12月12日:停滞
12月13日、第一キャンプ地~第二キャンプ地(6850m)
12月14日:頂上~第二キャンプ
12月15日:第二キャンプ地~BC~サマ部落
12月17日:サマ部落~ナムルー、ポーター3名と共に帰路キャラバン
12月18日ー19日、ナムルー~ガタ・コーラ
12月20日ー21日、ガタ・コーラ~ソディ・コーラ
12月22日ー24日、ソディ・コーラ~アルカード・バザール~ゴルカ
12月25日:ゴルカ~カトマンズ

登山活動

 東宝映画「植村直己物語」の撮影隊として出かけた私は帰路、山田昇から今冬のマナスルへの誘いを受けた。カモシカ同人隊が許可を受けていたのだが、予定していた隊員がエベレスト撮影隊に参加するというもので中断していたものだ。

 この1年間、この映画の為に自分の山登りが出来なかった私は、直ぐ行くことをきめた。BC以上ではシェルパを使わず、二人だけのアルパイン・スタイルでやってみようと云うことになった。二人だけで8000m峰をやると云うのは、私が名古屋山岳会に入ってからの夢であり、昔、影山淳と計画を立てたこともあったが、今冬にやるとは思っていなかった。

 12月2日、山田、斎藤、連絡管の3名を乗せたヘリコプターはカトマンズ空港から1時間で最奥の村サマ部落の高台に砂埃をあげて着陸した。1週間前にゴルカから先行キャラバンを始めたポーター達はまだ着いていなかった。4日までの2日間は、みじめなものであった。この村にはジャガイモしかない。コックのパサンが汗だくになって登ってきた。早速、タルカリ、ダル・バートを腹一杯食べる。その後、明日出発の準備をはじめる。急がないと風が吹き始める。

テント1張りのベース・キャンプ

 12月5日、連絡管とメールランナーを残し、4人でBCへ向かう。雪は全く無く、日本の秋山のような感じだ。82年のHAJ隊と同じところにBCを造る。小さなカルカが作って有ったので、その中を整地してテントを1つ張るとBCの完成だ。HAJ隊で遭難した故佐久間氏のケルンに出かけ、タバコを備えて黙祷をしてきた。

第1キャンプ 左上はピナクル

 

1度目は強風で断念

 12月6日、9時山田と2人で20kgのザックを背負って出発。シェルパ達は、最終キャンプまで一緒にと云ったが、2人だけでやることにこだわった私達は、その申し出を断った。氷河の中ほどにでてクレバス帯に入ると膝くらいのラッセルになる。14時半ごろマナスルに陽が沈むと急に寒くなりナイケ・コル手前1時間位のところ(5350m)でテントを張る。

 12月7日、ナイケ・コルからセラック帯に入る。ところどころに秋のスキー隊のと思われるロープが埋まっていた。スキー隊のキャンプ跡らしいクレバスの間の広い斜面にでた。我々もここでキャンプすることにした(6150m)。

 12月8日朝、空はすっかり雲に覆われていた。上部は大きなクレバスが2重、3重に重なっており、それを越えると、あとは頂上プラトーまで一気に急斜面が突きあげている。11時最終キャンプ地まで行く事にし、1泊分の食料と燃料を持って出発する。頂上プラトーまでの急斜面直下のアイス・エプロンと呼ばれている、岩と岩にはさまれた氷壁めざして登る。雪は風でよく締まっており、ピッチが上がる。17時ちょっとした窪みを見つけ、テラスを造る。暗くなる頃、6850m地点にテントを張り終え入いる。腰かけたままシュラフに入って眠る。

 12月9日、テント、炊事具などをザックにいれてデポし、3時30分出発する。相変わらず風が吹いている。夜明け前にアイス・エプロンの入り口についた。ますます風が強くなってきた。これ以上登っても登頂は出来ないだろうと思い、一旦戻ってやり直すことにする。第二キャンプ(6150m)地ぐらいまで降りると風も無く暖かい。BCまで下った。

冬のマナスル東面

 

寒冷の頂きを踏む

 12月11日、8時半、一緒に行くと云うシェルパ達を止め、再び2人でアタックに出発する。ナイケ・コルには昨日登っていたサマ部落の村人が2人残っていた。他の村人が上に登っていくのが見える。彼等はスキー隊のキャンプ地を見つけて、スキー、ザイル等を掘り出していた。トレースがあると実に早い。14時30分、前回と同じところに(6150m)キャンプをはる。

 12月12日、朝起きると10cmぐらいの雪が積もっていた。天気も良くない。今日は沈殿とする。夕方晴れてきたので、食料を1日分のみのこしてあとは全部食べる。

 12月13日、8時15分発、クレバス隊を抜けアイス・エプロン直下に良いテント場を見つけた。今夜はゆっくり寝られそうだ。

 12月14日、食事を済ませると、あとはカロリーメイト2個とキャンディ数個になってしまった。今回は場所が良いのでテントは張りっぱなしで行く。アイスバイルとピッケルを両手に持って、アイス・エプロンを登る。アイゼンが気持よくささる。風はあまりないが大変寒い。夜明けと同時に頂上プラトーに着くがここは風が強く岩が出ている。ヘッドランプ、テルモス、アイスバイルはデポする。

頂上プラトーは広く、どこが頂上なのかわからないままプラトーを進む。かなり進むと左側から斜面が降りてきており、その奥にあるのが頂上だろう。山田はもう見えない。絶対登るんだと云い聞かせ足を運ぶ。ピークが見え急傾斜を登り切ると、その先はナイフリッジだった。山田が待ってくれていた。ザイルを結び3ピッチで小さな三角形の頂上についた。

寒さのため写真を撮ることが出来ず、直ぐ下山にかかる。その時、雪と岩の間にあったピースの缶を山田が見つけた。登頂の証にもなるので胸のポケットに入れて持ち帰る。

アイスエプロンは慎重に後ろ向きになって半分程下ると、雪も柔らかくなり楽に降りることができた。15時、疲れきってキャンプについた。食べ物は何もない。水を作って飲む。

翌15日、キャンプを後にする。下りにも関わらず空腹と疲労のため、少しも進まない。クレパス帯の所まで迎えに来てくれたアン・パサンが持ってきてくれたチャパティとタルカリを貪るように食べ、サマ部落まで下った。

夜、我々のゴンパには村人がチャンを持って祝福に来てくれた。悪名高きサマの住人達だが、我々の小さな登山隊に対しては非常に親切であった。

 12月17日、成功でも失敗でも帰りのキャラバンは楽しい。ブリガンダキの谷をのんびり下り、
12月25日、カトマンズ着。

頂上から持ち帰ったピース缶は、初登頂した槇隊のものだった。

 

(「ヒマラヤ」No.175<1986/6>,会報99号<2009/9>より)