海外登山80周年会史から

1978年 ダウラギリⅡ峰① 

1978年 NAC単独のダウラギリⅡ峰 7751m
南面:東稜 初登頂

小川 正育

 誰しもが行けるとは思っていなく、行くとしていたのは3人ほどだった。目標も8000mに近い、未踏のルートから絞り込んだ結果、7,751mのダウラギリⅡ峰が目標の山として浮び上がる。この山はオーストリア隊が1971年春、2度目の挑戦のすえ北面から初登頂し、その後東京農工大により1975年春、南面より東稜7,300mまで登られていた。隊長の小林伸好氏にお会いして情報を得て、計画もより具体化していった。絵に描いた餅がやがて現実のものになるにつけ、メンバーの意思も固まる。意識していなかったが、1965年、愛知岳連隊により北面から初登頂が試みられた、私達にも縁のある山であった。 (隊長 小川義夫)

隊 名 :名古屋山岳会ダウラギリⅡ峰登山隊

メンバー:隊長・小川義夫、副隊長・小川正育、山田巌、永井勝実、宇津孝男、小池照二、新津千尋、天野英雄、高橋優

期  間 :3月4日~6月10日

行動概要

3月4日:羽田空港~6日カトマンズ。宇津、山田、小池の先発隊の迎えを受ける。日焼けで顔はすっかり地元に溶け込んでいた。たっての依頼で小牧氏(JAC)がBCまで行動を共にすることになる。

10日:カトマンズ~ポカラ、バス移動、12日:ポカラ~スイケット。ポーター130名によるキャラバン開始、13日:スイケット~バドゥラ、14日:バドゥラ~ビドラ、15日:ビドラ~サソダラ、16日:サソダラ~ベニ(1000m)、少しはキャラバンに慣れ楽しい1日になった。

グルジャヒマール(7,193m)、ダラパニ付近から

 

17日:ベニ~タトパニ~バビャゾール。タトパニ(露天風呂)で入浴、外国人が珍しい地元の観衆の落石で小池が左側頭部に4cmの切り傷、安静にさせ近くの茶屋泊まりに。本隊は予定通り出発。小池は、ゆっくり追いかけさせることに。18日:バビャゾール~ダルバン、小池は空身で歩いたが意識、脈拍共正常で平常と変わりなく調子は良さそうだった。

19日:ダルバン~シバン、20日:シバン~ムリ(1720m)、ポーターが逃げ50名程入れ替えた。
21日:ムリ~ズケパニ、3日連続の快晴、何も無い河岸段丘だ。

22日:ズケパニ~ジャルトン、キャラバンの難所大高巻き、永井、山田、アンカミ、ポーター5名の先発隊を出し無事通過。先行キャラバン中の都岳連DⅠ隊の手紙によれば、奥地で雪にあい、ポーターに逃げられやむなく25RS/日払ったとのこと。小池の経過も良く、中信支部隊の医者に診てもらった結果、問題無いとのことだった。頭を丸めたので「チン念」と命名、通り名になった。

DⅠ~Ⅱ峰間の大ゴルジュ

 

23日:ジャルトン~カルカ(ドバン:2620m の1時間手前)、24日・カルカ~チャリティレ、25日:チャリティレ~TBC(3700m)昨夜半より雪がちらつき、一晩中雷が鳴り響いていたが今朝出発はできた。裸足のポーター達とひと悶着、10時の時点で若干荷物が残った。途中デブリを2個所越えたところで又スト。1割増しの22RSにして歩き始め右岸の尾根を登る頃より本格的な降りになった。ポーターが逃げたりして若干の荷が途中に残ったが17時過ぎにTBC着。

途中の荷は翌日、翌々日に回収。裸足で下半身剥き出しの彼等は、ねぎらいの言葉とお金を受け取り、嬉しそうに、雪の中を三々五々スリップすることなく、トコトコ降りていった。26日:30cmの新雪、下部岩壁隊に大雪崩発生、雪煙はTBCに達した。天野談「モノスゴイ雪崩をみて、チビッテしまいました」と・・・。

下部岩壁に向かって、開山式・安全祈願

 

27日:コックのお経で開山式、永井他2名でルート工作、他は荷上げ、28日:DⅠ隊訪問、豊富な物量にビックリ、雨宮さんから情報仕入れ、29日~4月1日:アイスフォール下DC(4000m)。山田、小池、ペンパ、アンカミ入る。深夜0時近くに上部の巨大なセラックが次々に崩壊、ここしかない下部岩壁の工作したルートを破壊、荷上げ済み荷物21個を流された。山田達は、テントの両脇を雪崩が走り、ブロックがテントを叩き生きた心地がしなく、翌日ほうほうのていでTBCに降りてきた。

4月2日~4日:雪、天候待ち、荷物整理、5日:前回最高到達点4600mまでのルート確認&荷上げ、6日~7日:セラック帯~BC(4,800m)建設。上部雪原へ。初めてDⅡをみる。少し上まで登ったが、TBCからの距離の都合で、戻って農工大BCに。8日~11日:全員BC入り、15日:C1(5400m)建設、18日:C2(5800m)建設、降雪とガスで上部ルート工作難渋、28日:C3(6600m)建設、昨日全員C2(ABC)に集結、テントは3張りになった。

BCより荷揚げに出発

 

29日:C3へ荷上げ、30日:C4へのルート工作、40~50度の氷化した壁であるBCからの情報では「DⅠ隊でアクシデント、隊員1人が亡くなった」とのこと、誤報であればよいが・・、

5月1日:6日連続の晴れ 宇津、山田、高橋は頂稜へ挑むも4ピッチ延ばしたのみ、2日:小池-高橋、小川(義)-天野の2パーティーにてザイルを伸ばし7050mまで達する。3日:小川正、新津、アンカミ3名にて出発、C4予定地探すも、傾斜は落ちず30度はある。露岩を背後に雪面を削り取り、装備をデポした。7200mを確認。4日:モンスーンの到来で降雪のパターンが顕著になってきた。C4予定地へ酸素、テントを荷上げしたがテント設営までは叶わなかった。C3に山田、小池、高橋が入り、登頂態勢に入る。小川正隊4名はC2へ。

DⅠをバックにスキーを担いで

 

5日:晴天がもどった。第一次登頂隊員の山田、小池、高橋はC4にテントを張り終え、上部に少しフィックスを延ばし明日に備える。

 

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