1977年 日山協 K2(8611m) での勇み足
宇津 孝男
期 間 :1977年5月9日~8月29日
メンバー:宇津孝男、×吉沢一郎総指揮、新貝勲隊長、登山隊員38名、映画、報道9名、パキスタン隊員3名
日本山岳協会の1977年K2登山隊に参加した。在京の加藤幸彦OBには貴重なアドバイス、絶大な応援を頂いた。
5月9日、羽田発、29日、バハーから一次隊としてキャラバン開始。
6月15日、BC(5200m)着。C1(5500m)、C2(6295m)、C3(6880m)、C4(7420m)、C5(7940m)と設営、
8月3日、最終キャンプC6(8130m)建設。
8月4日、思ってもいない第一次アタックメンバー5名の一人に選ばれたが、猛吹雪であえなく撤退。そして4日間の風雪のあと、
8日、第2次アタック隊3名が登頂に成功、9日、第三次アタック隊3名も登頂した。
8月9日、4名でC4~C5まで背負子で荷揚げ。荷を少しでも上にあげようと、一人C6までピッケルなどを携行せず荷揚げをしてC5下る。18時、少し遅いと思ったが、食料&酸素がもったいないとC4を目指す。C5でカメラマンが忘れたピッケルと他隊員に頼まれたザックを荷下げ。天候も悪く暗くなってルートを見失ってしまった。荷下げのピッケルで雪洞を掘り、ザックの中にたまたま入っていた羽毛服を着、ザックに潜り、早めのビバーク。寝たら駄目と一生懸命に歌を歌ったが、いつの間にか眠ってしまった。
第三次の成功で隊がホットした気分に包まれた頃、私の行方不明が判明、大騒ぎになる。新貝隊長は指示違反に激怒したが、ドンチャンから預かった大事なメンバー・・と直ちに深夜、C5とC4の上下から吹雪をついてジョイントを試み、隊長の「10m前に宇津君がいるかも・・もう少し」と必死の捜索指示にも収穫はなかった。翌朝そんなこととは露しらず、フィックスを掘り出しながら、午前8時前にC4に辿りついた。これでローティションが狂い撤退になる。
11日、C1へ撤収中、落石が右腕に当たり骨折。
12日、BC集結、
29日、右腕に添え木、付き添い2名の第一陣にて羽田に帰国。隊の皆には多大な迷惑をかけてしまい申し訳ない気持ちで一杯であった。
[会報95号より]