1972年 アルプスとシルクロード
隊 名 :アルプス・シルクロード登山隊
期 間 :1972年6月24日~11月13日
メンバー:隊長・鈴木真吾、影山淳、山田巌、×押谷嘉浩(瀬戸水南山岳会)
行動概要:
アルプス 6月24日:横浜港発~ナホトカ~モスクワ7月1日:ミュンヘン。
3日:車購入 5日:シャモニ着
7月13日:ミディ南壁・影山、押谷
15~16日:グラン・キャピサン東壁・影山、山田
18日:エギーュ・ド・レム・山田、押谷
23~26日:ドリュ・北壁・影山、押谷
24~25日:モンブラン・山田
30日~8月1日:グランドジョラス中央側稜・影山、山田、押谷
8月4~5日:モンブラン・影山、押谷
22~24日:マッターホルン北壁・影山、山田、押谷
29~9月3日:ツエルマット~ローマ、鈴木、影山、山田、押谷
シルクロード 9月7日:車にてローマを出発、(鈴木真隊長帰国)
9月8日:トリエステにて交通事故
14日:ブルガリア、16日:トルコ、21日:イラン、
26日:テヘラン~アラムク北壁へ
30日:アラムク北壁にて影山墜落、
10月1日:イラン陸軍のヘリにて影山救出、ライラ・パーレビ病院入院
10日:影山退院、16日:テヘラン発、
19日:アフガン、27日:パキスタン
11月2日:インド 13日:ネパール
登攀記録
7月15日~16日:グラン・キャピサン東壁
L.影山、山田
7月15日:始発のケーブルにてミディに上がり、ジュアン氷河に駆け足で入り基部まで、後続パーティーに追いかけられぬように登ったが、ヘトヘトになってしまった。シェルンドを越え、雪壁を登り右側の岩場にでる。30m下降してテラスに出て登攀開始。
出だしから右側に困難でデリケートなトラバース、更に右にトラバースし少し下りテントの張れそうな大テラスに出た。テラスを右に詰めると、頭上から垂直に凹角が2本おりてきており、2本目の凹角(ジェードル)に取り付く。
以降5級A1のピッチが8ピッチ続いた。どのピッチも垂直の壁を腕力で登るもので越しても、越しても大ハングが出てくるのには閉口した。我々のあとにはシャモニの若者二人と、神戸の二人パーティーが続いている。
壁中央の大テラスに這いずり上がった時には、既にうす暗く、対岸のツールロンドは真っ黒い雲に包まれていた。雷とミゾレが降り出す中ビバーク。最後の神戸の二人がテラスに着いたのは10時だった。暗闇の登攀には溜息しかなかった。
7月16日:6時登攀開始。シャモニと神戸のパーティーは小雪の降るなかアップザイレンで下降していった。頂上まで5級、6Pである。山田と相談、一任されたので「じゃあ、行こう」、相も変わらぬ、オーバーハングをいくつも越し12時15分、キャピサンタユール頂上岩峰直下の登攀終了点に出た。
下降は岩峰を回り込み、モンブラン・ド・タキュール側からの痩せた岩稜目がけて、アップザイレンでコルに出る。長い、長いアップザイレンを繰り返し、氷河上に降り立つと、前日のトレールは新雪で消えている。
15時10分、憧れのボナッティールートに別れを告げ、ミディのケーブル駅着18時。駅の食堂で泊めてもらった。
(影山)
7月23~25日:プチ・ドリュ北壁
L.影山、押谷
7月23日:キャンプ場7時出発。荷物をデポしたロニョンの岩小屋から、取り付きに13時30分。雪田までクーロアールを4P、右に1Pで岩場しゃにむに にでて、3級程度の岩場を3Pで大きなテラス。ミゾレが降る中、ビバーク。
24日:晴後雪、好天の朝がきた。テラスからルート選択に迷いながら小岩稜上の岩峰をアブミで越し、西壁側の凹角に取付く。上部は完全なチムニーで、登るにつれ、傾斜が増し狭くなっている。しゃにむにチムニーを抜けるとテラスに、西壁側にバンドをトラバースして行き詰まると第一の難関ランベールクラックだ。
さほど難しいと思えず40m登り、次のピッチは初めて押谷にトップをゆずった。彼はハング直下でアブミを出し苦戦して抜け出た。私の番になり、あまりの難しさに、今にも落ちそうになり、ヤット抜け出た。岩と氷ミックス4Pで上部雪田入り口に、雪田を横切り上端に出て岩場を2Pで凹角の入り口に、取り付き以来20Pだった。
天気は崩れ出し、夕闇と、ミゾレが降り出した。暗闇の中ビバークサイトを求めて4P登り、左に続く細いバンドを15mで小さなテラスを見つけた。押谷が渡れずザックを置き、彼の処に戻ったりしてずぶぬれの二人がテラスに座り込んだのは22時を回っていた。今日のドリュでは下降も出来ず、核心部アランリスも分からず不安一杯のビバークだった。
7月25日:小雨後曇後小雨、寒くてやり切れない一夜を、足元がスッパリと中央雪田まで切れたビバークサイトで過ごし、ガスで一杯の5時45分登攀開始。凹角に戻り、40mで凹角を抜けでた。アランリスらしい次のピッチは非常にデリケートで登っては下りを繰り返して攀じ、上部小雪田を抜けると優しい岩場に出て、先行していたフランス人のビバークしたらしい跡を見つけた。
痕跡のある小雪田をたどり、頂上稜線直下の大岩の下の小さな人間がやっと通れる程の穴、南面に抜け出る穴に出た。頂上までの数Pを諦め、この穴を抜けると水晶が一杯陽の照りつける大テラスに出た。
12時、34Pの登攀だった。紅茶を沸かし疲れを癒し、南西岩稜の終了点でもあるテラスを南へ辿り、下降ピトンを探しつつアップザイレンを繰り返し、コルからルンゼの下降に入る頃には小雨が降り出した。氷河に降りる前に下降し過ぎらしく、ガスでルートが分からず、最終ビバークをした。
(影山)
7月30~8月1日:グランド・ジョラス北壁中央側稜 (日本人初登)
L.影山、山田、押谷
1935年ドイツのピーターとマイターに北壁で最初に完登されたこのルートは、3年後にカシン等により開かれたウオーカー稜のほうが困難さで優っている、と当時はされていたが・・。その後、ジョラス北壁にはルートが開かれ6~7本のルートがあるのが分かる。私達は日本人に知られていなく、且つ困難で長大なルートとして中央側稜(クロ稜)を選んだ。
7月29日:快晴、晴天が続きだし決行することにした。シャモニのレストランで与呉氏、隊長計5名にてステーキとワインで前途に乾杯。レショ小屋まで入山する隊長とモンタンベールからレショ氷河へ入る頃には、我々4名だけになった。レショ小屋は満員の盛況だったが殆どはウオーカー稜へ取り付くもようでフランス人の若者二人は、中央稜へ取り付くと言っていた。曰く「クロ稜はウオーカー稜より厳しいが、小柄な君達で登れるのか」と話かけてきた。私は「もちろんだ」と返事。
7月30日:晴後曇、2時起床、隊長と握手をかわしレショ氷河を詰め、第一タワー左側、中央クーロアールよりの雪壁の取り付き点に着いた。まだ辺りは暗く、明るくなるのを待っていると、フランスパーティーが追いつき先行した。緩い傾斜の氷壁を5p、落石の滝となったクーロアールを岩陰から岩陰へと走るように横切った。しかしクーロアルは第一タワーまでつきあげており、落石の中を登るしかすべはない。
8時50分、落石の危険から解放される第一タワーのコルに出た。途中、山田と押谷に2個ずつ命中したが大事には至らなかったがフランス人パーティーはザイルに命中、ドッペルザイルの片方が半分近くまで切断されていた。第二タワーへはリッジを1P登り、岩稜を右に回り込み、上部からの大きな氷の詰まったチムニーに取り付く。傾斜の増した上部で行き詰まり、ルート間違いに気つき、左側のリッジに、ピトン2本、楔1本を打ちこみ正規ルートにもどった。
14P目。コルからリッジを忠実に辿ったフランス人パーティーに追い越された。落石のクーロアールを再度抜け、第二タワーのコルに出た。中央雪田へはリッジからスラブへ、スラブをトラバース、クラックを抜ける。雪田は50度の氷壁で雪田の上端目指して4P登る頃には、ちらついていた雪が横殴りの風雪になってきた。既に18時、予定のスラブ下までは諦め、氷を削ってビバーク。フランス人パーティーも同じところでビバーク。
夜半はかなりの冷え込みで、殆ど眠ることが出来なかった。フランス人パーティーはツエルトもシュラフも持って無く、食料、火器もないようだった。
7月31日:曇時々晴、夜明けとともに氷のテラスを出発。氷壁から右側の岩場を2Pで核心部、ツルツルのスラブの前のテラス。待つこと2時間、スラブに走る細いリスに少しずつ高度を上げて、フランスのトップは抜けきった。
2度も落ちた彼はファイターだった。セコンドのフランス人がザイルを繋げてやるといったので迷うことなくザイルを差し出した。ラストの山田は必死にぶら下がって残置ピトンに回収をしてくれた。
2Pで上部雪田、雪田の真中を抜け上縁の岩場へ取り付く。4級のクーロアール、チムニーをかなりこなし、コルへ出た。先行しているフランス人パーティーは30m下のテラスに降り、バンドを右にトラバースしていた。私達3人は鳩首協議の結果、30m下のテラスから直上すべきとの判断で、暗闇と吹雪の中、テラスから2P直上した。
上部にテラスがあればルートを延ばしビバークする手筈だった。押谷が「フランス人がザイルを繋げてくれと言っているがどうするか」と大声を張り上げている。アップザイレンでテラスに降りてコル迄引き返し、3人用のツエルトに5人が入り込んだ。
8月1日:曇後晴、昨夕からの風と雪は弱くなっていたが、下から吹き上げて来るガスで、どんよりとした天気である。ユマールでフィックスザイルの上端に達する。フランス人がザイルを結んでくれと言いだしOKする。2Pでノコギリ状の岩峰の稜に、右にアンサウンドのガラガラの岩場を登り、左稜上にでて中央クーロアール側に出た。ジェードルの上部をアブミで越え、雪庇の下に出た。最終の難関の雪庇はバイルを振り回して、最後は雪に突き差し這いずり上がった。14時丁度、頭上には流れる雲と紺碧の空だけであった。16時5人全員が抜けきった。フランス人は私にメルシーボクーを連発していた。ジョラス小屋に立ち寄り、フランス人から缶ビールをごちそうになった。部落に下り終えたのは22時だった。適当な芝生を見つけぐっすり寝込んだ。翌8月2日10時シャモニに帰りついた。
(影山)