1964年 ギャチュンカン登頂までの道 7922m
加藤幸彦
ビックホワイトでの出来事
1960年6月1日、私はビックホワイトのBCをいま去ろうとしていた。もう2度と来ることは無いであろうビックホワイト・ピークを振り返り振り返り、涙ながらの別れを告げて下りはじめた。
多くの人達の協力と期待を裏切り、人間関係の不調和に敗れ、登頂に失敗してしまった今、遠くネパールくんだりまで一体何のためにやってきたのか。なんでこんなところまで来て、人の足を引張って争わねばならないのか。それでも、登頂するまではと妥協してきた多くの犠牲や忍耐は、今となっては何の価値があったというのだ。登山の前に人間関係がある。私はビックホワイト・ピークに敗れたのではない。人との闘いに敗れたのだ・・・。(中略)
それから2年の後の、1962年5月7日、幸運にも私達はビックホワイト・ピーク(7083m)の初登頂に成功して、全ての登山活動を終り、ABCのハイパス(6100m)に全員集結していた。
完璧なまでに仕事を成し遂げたあとの満足感と、充実感につつまれて、テントの中は喜びとユーモアが満ち満ちていた。鉄のようなチームワーク、恵まれた天候、十分な装備にうまい食べ物・・・。私達に何一つ欠けたものはなかった。
確かに、今回も前の遠征のときと同じように、各団体から選抜された混成チームであったが、人と人との心の触れ合いは、単一チームをはるかに超えるものがあったと思う。私には前の遠征がみじめであっただけに、今回はいい山友達を得たことを非常に有難いと思わずにはいられなかった。(中略)
「おい、気分はどうだ」
突然の声に振り向くと、高所服のポケットに両手を突っ込んだ副隊長の中野さんの髭むじゃの顔が、やつれてはいるが、にこやかに笑っている。
「どうだ、疲れたか?」
「いやあー、それ程でもありませんよ」と、私も延び放題になっている顎の髭をなでながら笑った。
しばらく沈黙が流れ、ビックホワイトの頂きを無心に眺めていた。
「さて、どうするか?」と、中野さんが声をかけてきた。
「何がですか?」
「とぼけるなよ。次に何処を登るんだと聞いているのだ。高島の話だと、お前はビックホワイトの頂上で、ゴザインタンにご執心だったらしいが・・・」と、問いかけるように中野さんが言った。
「しかし、あれは完全にチベット領内ですから駄目ですよ。もっと合法的に登れる、もっとスッキリした山を登りましょうよ」
またふたりの間に沈黙が続いた。
「ギャチュンカンはどうですか?」と、私。これはただの思いつきであったが。
「たしか・・・、今アメリカ隊が行ってる山だな」(中略)
夕食のあと、高橋隊長はサーダーを天幕に呼びつけ、「シェルパの中で、特にギャチュンカンに詳しい者をここに寄越すように」と命じた。
「グット イブニング サー」と言って天幕に顔を突っ込んだのは、一昨年もビックホワイトで行動を共にした最も忠実で信頼のできるニマ・テンジンであった。
「カムイン、カムイン」と祝いの酒でご機嫌の秋山隊員が、ジェスチャーたっぷりに彼を天幕の中に招き入れ、早速、高島隊員が彼に質問をあびせはじめた。
「ニマ・テンジン。今回はご苦労であった。お前達のお陰で、我々は念願のビックホワイト・ピークに登頂することが出来た。そこで、いま我々は新しい次の目標を決めようとしている・・・。実はギャチュンカンだ。お前の知っている範囲のギャチュンカンを説明して欲しい」
流れるような高島のキングス・イングリシュに彼は冷汗を顔一杯に噴き出しながら聞き入っていたが、落着きを取り戻して、ポツポツと語りはじめた。
「サーブ。ギャチュンカン イズ ベリーディフィカルト マウンテン サー。バット ベリーグット マウンテン サー」とはじまり、続けて彼は次のような説明を付け加えた。
“ギャチュンカンはカトマンズから3週間位かかる。しかしナムチェバザールへの道は、食糧も豊富、道路も良く、また、ナムチェを中継地とするので、大きな遠征隊が来ても、シェルパと人夫の調達に不安がない。ゴジュンバ氷河はかなり厳しく、山は城壁をめぐらしたように聳えており、雪のついていない岩壁が大きい。しかし、今度のサーブ達が来たら、恐らく登ってしまうだろう”と、最後にお世辞を付け加えることも忘れなかった。
ご機嫌の隊員達は、一斉に皆ニヤリと笑った。それから天幕内では、ひとしきりギャチュンカンをめぐっての討議が続いた。ヒマラヤの真只中、標高6100mのハイパスで、ギャチュンカン遠征の産声があがろうとしていた。(中略)
5月25日、私達はカトマンズに帰って来た。確かな話ではないが、アメリカ隊は目下音信不通の状態である。恐らく失敗したのではないか・・・ということらしかった。
[月報5号(1967.9)より]
長野岳連から参加要請を受ける
1962年7月、ビックホワイト・ピークの遠征を終えて日本に帰ると、意外なニュースが私達を待ち受けていた。
ギャチュンカンを目指したはずのアメリカ隊は、実はギャチュンカンには目もくれず、ヌプ・ラを越えてチベット領に侵入し、エベレストをノース・コルから攻め、不運にも彼等は遭難事故をひき起こし、失敗に終ったのである。「越境したこと」でネパール政府に厳しくクレームをつけられてしまったのである。
この事実は私達に非常に有利な条件を生むことになったが、私達の側においても、おいそれと計画の推進に踏み切るわけにはいかない。おそらく1500万円はかかるだろう資金調達の見通しをめぐって対立した二つの意見が合意に至らず、そのため何も進展することなく、時間だけがどんどん経過していった。
「世界第三位の残された未踏峰だ。ヒラリーさえも手をつけなかった“絶壁の城”ギャチュンカンだ。なんとか金は集まるさ」と高橋照さんが太っ腹のところを見せて、いたって強気であるのに反し、常に正論を押しまくる中野さんは、「今はマナスルの時と違い、そう簡単に金集めは出来ない・・・」と、徹底した慎重派であった。しかし、兎に角一歩前進してみることになった。
それで、費用の算出、登頂ルートの選定などは、中野さんと私が分担し、ギャチュンカンを登頂するための基本的な計画が着々と決められていった。
あけて1963年は、計画を実行に移すまでに至らず、結局その年の7月、1964年度の計画として、全日本山岳連盟海外登山審議会に、東京都山岳連盟の名において提出されたが資金の面で難航を続けていた。しかし、その時、まったく同じ計画が長野県山岳連盟から提出されたのである。
長野岳連は、会長の古原和美氏を隊長に奉じ、岳連指導員層からより選った隊員構成で、岳連活動を挙げての体制をかためており、地元の信濃毎日新聞社の強力なバックアップを受けて、すでに遠征資金2000万円の調達見通しもついているという。結果は予想通り長野岳連に軍配があがった。
審議会としては、貴重なスポーツ外貨を割当てる以上、計画の実現性が高いチームを推薦するのは当然である。かくして、私達が目論んだギャチュンカン遠征は、私達の目前から消え去っていったのである。
ある日、隊長であった高橋照さんの家に集まり中野さんをまじえ、ヒマラヤ談義に打ち興じていると、突然、照さんが真面目な顔をして話を切り出した。
「実はね、満ちゃん。ここだけの話だがね」と。中野さんは“またはじまった”と、鍋をつつきながら、「何の話ですか?」と、いたって冷静である。
「実はね、来年の長野岳連のギャチュンカン遠征計画に、我々のグループから二人程出したいと思うけど・・・、満ちゃんどう思う?」
「出したいといったところで、相手のある話でしょう。それに費用も・・・。そう簡単に出す出すといってみても、裏付け取ってみない内は何ともいえませんよ」常に正論を吐く中野さんの意見には、異論の余地がなく感服させられたが、一方、照さんの親分肌で楽観的なところも、妙に魅力的であった。
「大丈夫だよ。長野隊は金が集まるから、二人ぐらいは、オール・ギャランティーで連れていってくれるよ」と、いかにも自信たっぷりな口調である。
「そんなうまい話には乗れませんよ・・・。どうかと思うね」と、中野さんの方も、てんで問題にならんと、やり返している。
この日は、大分酒が入っていたので、遂に照さんは、「僕の話をそれ程信用しないのか」と荒れ出してしまった。「信用する、しないとかという問題ではないですよ。長野側から、確証が取れていますかということですよ」と、中野さんもなかなか引き下がっていなかった。
「まあいいや。安さんもドンちゃんも若し行けるようになったら、参加する意思があるかね」と、照さんは形勢不利とみて今度は私と安さんに矛先を向けて来た。
「もちろん、大ありですよ」と、二人はオーム返しに答えた。(中略)
8月中旬のある日、突然私の会社へ、今度の遠征隊の実行委員会事務局長をしておられた鹿野杉男氏と、副隊長予定の吉沢一郎氏が訪ねて来られたのである。
彼等は私にギャチュンカン遠征計画の実情を説明したのち、実は、と区切って、長野岳連には、隊長の古原さん以外にヒマラヤ経験者がいないこと、長野岳連としても、計画が全県的な大がかりなものになりつつあるし、ギャチュンカンという大物を狙うことでもあるので、なんとしてもこれを成功させるために、全日本山岳連盟という広い視野に立って他県から優秀なヒマラヤ経験者を補強することに決定した。
高橋照さんに相談、白羽の矢を、君と東京の安久君に当てた次第だ。この件は、既に大和理事長を通じて荒川愛知岳連会長から「本人さえ諒承すれば、協力しましょう」との回答を得ている。是非参加をお願いしたいと要請された。そして、このとき「一応募金体制は出来上がっているが、長野側の隊員には個人負担金50万円を用意するよう言い含めてある。しかし、君たち二人の補強隊員についてはオール・ギャランティーにしたい」との申し出を受けた。
実際問題、私には過去2回のヒマラヤ遠征で、個人的な資金の裏付けがまったくなかったので、この暖かい申し出を聞いて、胸の詰まる思いをどうすることも出来なかった。
もちろん私は即座に「行かせて頂きます」と、きっぱり返事をした。東京では、時を同じくして安久が遠征隊参加の意思表示を明らかにした。このようにしてジュガール会から私と安久が補強隊員として参加することが決定した。
[月報6号(1967.10)より]
――― 1964年4月10日、大滝隊員の事故を乗り越えて、堺澤、加藤隊員により初登頂され、翌日、町田、安久隊員も頂上に立った ―――
期 間:1月23日~6月5日
メンバー:加藤幸、×7(隊長 古原和美、吉沢一郎、町田和信、武田武、大滝明夫、
堺澤清人、北村忠雄、安久一成、菊池俊朗、小林忠治)
行動概要
1月23日 先発隊 羽田発
2月 9日 本隊 羽田発
13日 全隊員カトマンズ集結
17日 キャラバン開始
3月12日 BC設営 5000m
18日 C1
20日 C2 5700m
23日 C3 6200m
前進ベースキャンプ
28日 C4 6700m
クーロアール下部
31日 C5 7050m
クーロアール中間
4月2日 雪崩がテントを飛び越える。瞬間テント内は明るくなり、
シェルパたまらず飛び出し、加藤幸もやむなく夜中、
C4へ避難する。
4月 6日 稜線コルに出るも、「先の国境稜線はものすごいナイフリッジと
ギャップの連続で通過は非常に困難」で、新ルート開拓に着手
7日 仮C6 7600m 国境稜線直下約100m。のち大滝キャンプと呼ぶ
9日 頂上工作隊の一人、大滝隊員が滑落、行方不明に。C6 7700m
10日 第一次、加藤幸、堺澤、パサン・プタールが、11:00初登頂。
C6を出てすぐ、酸素を置き、ビビラム底で二級程度のチベット側の岩場を登り、
頂上直下の堅雪はアイゼン無しでステップを切ってビブラムでの登頂。
高度計は何と992mだった。C1では1000mm望遠レンズで確認された。
11日 害二次、町田、安久 10:15 登頂
14日 BC集結
21日 BC撤収し帰りのキャラバン開始。周辺の調査、探索をしつつ、帰路に着く。
6月 5日 羽田着
[岳人196号(1964.7)、 栄光への挑戦 ギャチュンカン登頂記 菊池俊朗
二見書房、ギャチュンカン勝利の記録 信濃毎日フォトグラフ、を参照した]