1960年 全岳連初遠征 ジュガールヒマール主峰
加藤 幸彦
全日本山岳連盟(以下、全岳連)としての初めての海外登山計画は、東海地区山岳連盟(東海岳連)のジュガールヒマール主峰、ビッグホワイトピーク(レンポ・カン)7083mの初登頂計画に決まったが、この計画は、実に短期間の準備で臨んだ遠征計画であった。
期 間:2月29日~7月29日
メンバー:加藤幸彦×7(隊長 伊藤久行 副 岩瀬正次 二木節夫 石原国利
春田金徳 稲垣恒夫 羽田栄治
1958年から加藤幸は三重の岩稜会の石岡繁雄氏を中心とした東海地区山岳連盟案としてジャヌー遠征計画を推進しようとしていた。1959年の8月、対立していた愛知岳連案のジュガールヒマール主峰遠征が東海岳連の計画として全岳連に申請することに決定したが、9月、伊勢湾台風に襲われ、海外登山どころではなくなった。
しかし10月、選手派遣を辞退し、役員だけを派遣した国体の後の全岳連理事会でこの計画承認を強く訴えた。「こんな時こそ頑張りたい・・」と。
年の瀬が迫る12月、正式に登山計画提出、18日、全岳連が東海岳連案を承認、25日、東海岳連はヒマラヤ委員会を立ち上げ、実施へのスタートを切る。
外貨特別枠の申請、ネパールの登山許可申請は「6ヵ月前の計画提出を」といわれ、シェルパとの交渉も出来ていない状態で、プレモンスーンのヒマラヤ登山計画は、出発まで3ヶ月もない。準備に時間が短じか過ぎた。
正月を返上して1月2日から計画を検討、4日にジャヌー推進派のメンバーも組込んで、組織内対立を収めるようにと、メンバーが内定するという慌ただしさで、その後、隊員、岳連役員、隊員の仲間達が連日、登山許可申請、外貨申請、装備、食糧の調達、梱包作業など文字通り寝食を惜しむ準備活動が進められた。
2月17日 隊荷梱包作業が始まるなか、ネパールの登山許可が出る
2月29日 加藤幸は春田隊員と先発として名古屋駅を出発
3月 1日 隊荷とともに神戸港を出港
3月14日 本隊も神戸港を出港
3月29日 全隊員カトマンズ着。その後、ネパール政府との交渉、シェルパ契約などに手間取る。
ダージリンシェルパとの契約が許されず。
3月31日 通関を済ませて隊荷、カトマンズ着
4月 7日 シェルパ契約が妥協の中で成立。キャラバン許可証入手
4月 8日 ようやくカトマンズからキャラバン開始
4月18日 BC到着。登山活動が始まる。
4月21日 CⅠ、24日 CⅡ、5月2日 CⅢ、6日 CⅣと順調に展開、
5月 7日 マディアピーク(6900m推定)に加藤幸、石原隊員とシェルパが初登頂。
偵察行動で、CⅣを稜線まで上げてCⅤとし、マディアピークを越え、
ビックホワイトピークまでの稜線偵察を終え、自然に出来た大きな雪洞にビバーク。
5月 8日 傾斜のきつい往路を嫌がるシェルパの意見も有って、
帰路をドルジェラクバ氷河側とするが、シェルパが負傷する。
5月 9日 登頂ルートが変更される
5月10日 ギャルツェンピーク(6700m)英国女性隊に次ぐ第2登。
CⅤのテントを撤収して、新ルートのCⅣ用とする行動のついでの登頂。
5月11日 ハイパスに新CⅣを設営。が、ドルジェラクバ氷河側の新ルートでの
展開が手間取るうちにモンスーン入りとなり
5月19日 撤収指令が出て、撤収作業を進める
6月 1日 帰路のキャラバン開始。6月9日 カトマンズ着
6月22日 カトマンズ発
6月30日 カルカッタ出港 7月28日 横浜入港
7月29日 帰名
ギャルツェンピークからビックホワイトピーク